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25年間、場所を守り、人を育て、地域に根を張ってきた。その誠実さは本物だ。でも「正しくやってきた」という確信が、あるとき静かに揺らぎ始める。あなたの召しは、今日も「従う」ことから来ているか。
「そのためにも私たちはいつもあなたがたのために祈っています。どうか私たちの神があなたがたをお召しにふさわしいものにし、また恵みによって善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。」
「召し」とは、ふさわしくなることではない
「召し」という言葉があります。
神があなたを名前で呼び、用事があって、託したいことがあって、そこに置かれた。それが召しの意味です。
この言葉は、長く誠実に歩んできた人ほど、ある時期から変質していきます。「自分はここに置かれている」という確信の言葉が、「自分はここにいることが正しい」という根拠の言葉になる。「神が呼んだ」という受け身の言葉が、「自分は選ばれた者だ」という証明の言葉になる。
気づかないうちに、召しは「これからどこへ向かうか」の問いではなく、「ここまで来た自分は正しかった」という答えになっていく。
テサロニケの教会も、似た場所にいました。迫害の中で「自分たちは正しい側にいる」という確信が、いつしか「終末はもうすぐ来るはずだ」という的外れな期待に変わっていた。信仰の確信が、現実の問いから目をそらす道具になっていた。
「従う」という一言の重さ
パウロがこの手紙で語ったのは、シンプルなことです。
召しにふさわしい者とは、ふさわしくなろうとする者ではない。呼ばれた歩みに従い続ける者だ。
「善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うする」。この言葉の中心は「全うする」です。完成する、ということです。自分で達成するのではなく、神が与え始めたことを、神が完成してくださる。そのプロセスの中に、従って居続けること。
キリストが十字架に向かった場面を思い出してください。あの場面で、キリストは「嫌だ」と思いながら、それでも善を求め、信仰の働きを全うしていった。好きでやっていたわけではない。ふさわしいと確信していたわけでもない。ただ、従った。苦しみの杯を持ちながら、それでも従った。
正義感と信仰の働き——その出どころはどこか
ここで一つ、正直な問いが生まれます。
「善を求める」という行動は、どこから来ているか。
行政の場で「また同じだった」と感じて帰る夜があるとします。市長を批判し、議員を批判し、「これは聖書的ではない」と語ることができます。その言葉は正しいかもしれない。でも、その「正しさ」は信仰の働きから来ているか。それとも別の何かから来ているか。
パウロは「善を慕う願いが正しいかどうか」を問うていません。その願いが「信仰の働き」と結びついているかを問うています。批判が正しいことと、その批判が召しから来ていることは、別の話です。
25年間、正しいことをしてきた。それは本当のことでしょう。でも「正しくあること」と「呼ばれた歩みに従うこと」は、同じではありません。正しさは蓄積されます。従うことは、今日も問われます。
テサロニケの人々に届けられた言葉は、裁きではありませんでした。「あなたがたは召されている。その召しにふさわしく、神が全うしてくださる。だから、召されていることを意識し続けて歩め」という言葉でした。
今日の歩みは、どこから来ているか。批判から来ているか、召しから来ているか。その感触の差を、自分の中で確かめながら歩む1週間が、ここから始まります。
考えてみましょう
「今日の一歩は、召しから来ていたか、それとも別の何かから来ていたか」——この問いを、今週の歩みの中でどこか一度、正直に開いてみるとしたら、何が出てくるでしょうか。
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