Podcast: Download (Duration: 30:37 — 31.4MB)
購読はこちらから Apple Podcasts | Email | RSS | くわしい購読方法
長くやってきたはずなのに、自分が何のためにここにいるのか。
そんな問いが、ある朝ふいに来ることはありますか。
それとも、問いが来ることすら、もうなくなってきたかもしれません。
「アンテオケにある教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人のルキオ、国主ヘロデとともに育ったマナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。」
——使徒の働き13章1節
あの部屋に、バラバラな五人がいた
ここに呼ばれたから来た。
誰かに必要とされたから残った。
気がついたら、長くなっていた。
それが「召し」だったのか、そうでなかったのか。
答えを探しているうちに、問いだけが積み上がっていく。
そういうことが、あるかもしれません。
これだけ違う人間たちが、なぜか一緒にいる
アンテオケの礼拝の部屋を、少し想像してみてください。
エルサレムから遣わされてきたバルナバ。
「黒い」という意味の名で呼ばれていたシメオン。
アフリカの港町クレネから来たルキオ。
王の幼なじみとして宮廷で育ったマナエン。
そして、かつて教会を焼き払って回っていたサウロ。
この五人が、同じ部屋に座っています。
出身地が違います。
肌の色が違います。
育った世界が違います。
教会を守ってきた者と、教会を壊してきた者が、同じ場所にいます。
しかもこれは、後ろの席の話ではありません。
「預言者や教師」——指導者の層そのものが、これほど雑多だったのです。
これは、なんとなく集まっていたわけではありません。
でも、だからといって、共通の経歴があったわけでもありません。
共通の出身地も、共通の肩書も、何もありません。
名前をつけたのは、彼らではなかった
周りの人たちは不思議に思いました。
今まで一緒になるはずのない人間たちが、ケンカもせずに集まっている。
いったい何だろう、あれは。
調べてみると、どうやらイエスキリストという人物を救い主として信じている。
それ以外のことは、皆バラバラらしい。
そこで外の人々は、面白半分に名前をつけました。
「あいつら、キリストの奴らだよな。」
これが「クリスチャン」という呼び名の始まりです。
由緒正しい信仰の看板として、自分たちが名乗ったわけではありませんでした。
エルサレムの長老たちが承認した称号でもありませんでした。
外から眺めていた人たちが、半ば冗談のようにつけた、あだ名でした。
でも、そのあだ名は正確でした。
彼らが一つである理由は、本当にそれだけだったからです。
バルナバの実績でも、マナエンの王室との縁でも、サウロの学歴でもない。
あの部屋で積み上げてきたものは、何一つ根拠になっていませんでした。
ただ一つ——キリストを真ん中に置いているという、そのことだけが理由でした。
長くここにいる。
誠実に積み上げてきた。
それは本当のことです。
でも、あの部屋では、それは根拠にならなかった。
あだ名だけが、彼らが一つである理由のすべてでした。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
この箇所を読んで、僕がいちばん引っかかったのは——「キリスト者」という名前が、自分たちで選んだものじゃなかった、というところです。
外から見ていた人が「あいつら、キリストの奴らだよな」とつけたあだ名が、そのまま彼らの名前になった。
つまり、「自分は何者か」の答えを、彼ら自身は持っていなかったかもしれない。
でも外から見れば、それは明らかだった。
あなたが長年積み上げてきたものを、外から見ていた人が一言で言い表すとしたら、何と言うでしょうか。
それは、あなた自身が名乗ってきたあだ名と、同じでしょうか。
《参考礼拝メッセージ》
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。
動画はこちら

コメント