使命感からくる疲れを感じていませんか。正しいことを届け続けているのに、どこか虚しい。そんな感覚が続いているなら、この話があなたに届くかもしれません。
行って宮の中に立ち、人々にこの命の言葉をことごとく語りなさい。
使徒の働き 5章19〜20節
正しい場所にいたのに、何かがズレていた
サドカイ派という人たちがいました。
祭司として神の宮に仕える。それは誰もが認める立派な歩みでした。神と人との間を取り持つ、特別な役割です。彼らは自分たちの使命を信じていた。間違ったことをしていたわけではない。
でも、いつからか何かがズレていきました。
「この歩みを守らなければ」という思いが、いつのまにか中心になっていったのです。祭司職を守ること。自分たちの権威を守ること。その場所を失ったら、自分たちの歩みは成り立たない。そういう恐れが、動機の根っこに入り込んでいました。
使徒たちが「命の言葉」を語り始めたとき、彼らは怒りました。脅威を感じました。「妬み」という言葉が聖書には出てきます。人々があちらになびいていく。自分たちの立場が揺らぐ。その怖さです。
正しい場所にいた。正しいことをしていた。でも、見ていたのは「自分の歩みが成り立つかどうか」でした。
牢から出たとき、使徒たちが向かった場所
一方、使徒たちは捕らえられ、牢に入れられました。「もうこれ以上語るな」と命じられていました。
夜中に、主の使いが現れます。牢の扉が開かれます。そして言われた言葉は、「隠れて生きなさい」ではありませんでした。
「行って、人々のいるところで語りなさい。」
彼らは朝早く、宮の中に入って語り始めました。人が集まってくるのを待つことすらしなかった。なぜそこまでできたのか。
それは義務感からではなかったはずです。「語らなければ」という使命感でもなかった。命の言葉を——神が人に向かって動いているという、その本当のことを——届けたかったからだと思います。
メッセージの中で「悔い改め」という言葉が出てきます。これは「悪かったと思う」こと以上の意味を持っています。向きを変えること。視線の先を変えること、と説明されていました。
あなたは今、何を見て歩みを決めていますか。
他の人と比べていますか。自分がどれだけできたか、できていないかを見ていますか。状況を見て、うまくいっているか判断していますか。あるいは「あの人が変わらない、なぜ届かないのか」と、届かない相手を見続けていますか。
悔い改めるというのは、そこから目を離すことです。人でも、自分でも、状況でもなく——神を見上げることだと、このメッセージは言います。
今日、あなたが向いていた方向は
正しいことを届けようとしている。それは本物です。
でも、「届かないと自分の歩みが成り立たない」という感覚がどこかにあるなら——それはサドカイ派の人たちの怖さと、少し似ているかもしれません。
使命感は、人を動かします。でも使命感は、人を疲れさせもします。見ているものが「正しくあること」「届けること」「役に立つこと」である限り、その疲れは終わりません。
「ことごとく語りなさい」という言葉がありました。困難な時でも、一人しかいなくても、相手が好きな人でも嫌いな人でも、語り続けなさいと。でもそれは、「どんな状況でも義務を果たせ」ということではないはずです。見上げている先があるから、語り続けられる、ということだと思います。
何を見て動いているかが、疲れ方を変えるのかもしれません。
考えてみましょう
今日あなたが一番エネルギーを使っていたのは——何かを届けるためでしたか。それとも、届けている自分を保つためでしたか。
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