「ちゃんとの基準」は、誰が決めたのですか

「ちゃんとの基準」は、誰が決めたのですか

今日うまくやれたのか、やれなかったのか。
誰にも聞けないまま夜が来ることが、ありますか。
それとも、聞こうとする前に「俺がちゃんとしなければ」と片づけてしまいますか。
——それを一人で抱えてきたとしたら。

義人は信仰によって生きる。
——ローマ人への手紙 1章17節

目次

「ちゃんと」の重さを、一人で抱えていませんか

毎朝送り出して、迎えに行って、夕食を作って、寝かしつける。
「今日もできたのかできなかったのか」——どちらでもないような感覚のまま、一日が終わる夜があります。
疲れているのはわかる。
でも、疲れた、とうまく言葉にできない。
何かが足りない気がしている。
でも何が足りないのか、わからない。

「もっとちゃんとしなければ」という言葉が、頭をよぎることはありませんか。
あるいは逆に、そう感じる余裕すら残っていないかもしれません。

その「ちゃんと」の基準は、いったい誰が決めたのでしょう。

何を積み上げたかではなく、何を土台にするか

パウロという人物が、かつてローマの人たちに手紙を書きました。
その中に、こんな一節があります。
「義人は信仰によって生きる。」

「義人」とは、神に良しと認められた人のことです。
その人は何かを積み上げた結果としてではなく、信じることそのものを土台として生きていく——という宣言です。

頑張り続けた結果ではなく、土台が先にある。
これは小さなことのように見えて、実は全体をひっくり返すような話です。

「十分かどうか」の答えを、神は持っている

この宣言の直前にパウロが書いた言葉があります。
「神の義が、掲示されている。」

神の義、つまり神が「良し」とする基準が、すでに示されている。
「何をすれば十分か」という問いへの答えを、神はすでに持っていて、それが良い知らせとして差し出されている——そういう構造です。

私たちが「ちゃんとの基準」を自分で抱えて、一人で採点し続けているとしたら、それは誰も採点できないテストを受け続けているようなものです。
そのテストの採点欄には、すでに名前が書いてある。
そういう構造が、ローマ書1章にあります。

今夜もわからないまま眠るとしても、その基準はすでに神の側にある——それだけは、掲示されています。

AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】

「義人は信仰によって生きる」という言葉、僕も最初は「信仰がある人の話だ」と思いました。
でもその直前に「神の義が掲示されている」とある。
採点者がすでに答えを持っていて、しかもそれを隠さず示している——そういう話なんですよね。
「ちゃんとできたか」を自分で判定し続けることの疲れを、この言葉はそっと引き受けてくれる気がしました。
今夜、その基準を誰かに預けてみたとき——何かが少し軽くなる感じがするか、それともまだ預け方がわからない感じがするか。僕にはまだわかりません。

《参考礼拝メッセージ》

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。
動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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