聖霊、という言葉を聞くと、何かすごい人たちへの話のように聞こえるかもしれません。でも、この話は扉を閉めて動けなかった人たちから始まります。動けない時間があった、それはこの話を台無しにしません。むしろ、その時間があったからこそ、この話は始まるのです。
炎のような、分かれた舌が現れて、一人一人の上にとまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が話させてくださる通りに他国の言葉で話し出した。
使徒の働き 2:3-4
「みんなに」ではなく、「あなたに」来た
イエスの弟子たちは、扉を閉めた部屋の中にいました。
イエスが死に、復活し、そして40日後に天へ去っていった。残された弟子たちは「これからは自分たちでやるしかない」と覚悟を決め、10日間、屋根の下で集まり、祈り続けました。
外には出ていません。
扉は閉まっていました。お互いの顔を見合わせながら、自分たちだけで抱えていた。何かをしたわけでもなく、どこかへ行ったわけでもない。ただ、閉じていた。
その10日間に、神は来たのです。
そのとき、炎のような舌が「1人1人の上にとまった」と書いてあります。
家全体に降りたのではありませんでした。「みんなでどうぞ」という渡し方でもなかった。1人の上に、また1人の上に、また1人の上に——と、それぞれの上にとまった。
名前が書いてある、という違い
大きな荷物が届いたとします。
「みなさんへ、人数分入っています」と書いてあるものと、「〇〇さんへ」と名前が書いてあるもの。受け取り方は、まったく違います。
前者は「誰かが受け取ればいい」。後者は「あなたに向けて送られた」。
聖霊がとまったのは、「みんな」の上ではありませんでした。「あなた」の上でした。動いていた人の上だけでもなかった。扉を閉めて屋根の下にいた、あの人たちの上にも、です。
「自分たちで担う」のではなかった
弟子たちはその10日間、「これからは自分たちがこの信仰を守っていくのだ」と気を張っていました。
イエスはいない。自分たちだけでやるしかない。でも、できるだろうか。祈り、相談し、それでも答えは見えなかった。
しかし神は言っていたのです。「もう一人の助け主を遣わす」と。
助け主とは、あなたのそばに呼ばれて、あなたのためにいてくれる存在です。弟子たちが扉を開けていったのは、自分たちが強くなったからではありませんでした。自分たちだけで担っていたのではなかったと、知ったからです。
動けなかった10日間は、失敗の時間ではありませんでした。その時間ごと、神は知っていた。
考えてみましょう
扉を閉めて屋根の下にいた10日間、弟子たちは何かを「なしとげた」わけではありませんでした。ただ、いた。
あなたが今いる場所に、「あなたに向けて」来るものがあるとしたら——それは、動けるようになってから届くものでしょうか。それとも、今いるその場所に、すでに向かっているものでしょうか。
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