40年後も、向こう岸に民は立っていた

40年後も、向こう岸に民は立っていた

何年も時間が過ぎたのに、何も変わっていない気がする。
その感覚は、孤独よりも静かに、でも確実に内側を侵食してきます。
あなたも、そういう時間を知っていますか。

強くあれ、大胆であれ。私が彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたはこの民に受け継がせなければならない。
——ヨシュア記1章6節

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時間が流れても、問いは消えないまま残っている

何年か経ったとき、「あの時間は何だったのだろう」という問いがやってくることがあります。

状況が変わったわけでもなく、自分が変わったわけでもなく、ただ時間だけが過ぎたような感覚。

その静かな問いに、うまく答えられないまま今日まで来た、という方もいるかもしれません。

40年経っても、向こう岸の民は消えていなかった

ヨシュア記は、こういう場面から始まります。

40年前、イスラエルの民はカナンの地を前にして、「向こう岸には力強い民がいる、私たちには入れない」と言って引き返しました。

その40年後、民はヨルダン川のほとりに再び立ちます。

向こう岸の民は、何も変わらないままそこにいました。

「あの時入れなかった理由」は、そのまま残っていました。

40年という時間は、その現実を消してはくれなかったのです。

「あの時と同じように」という、神の言葉の繰り返し

その場面で、神はヨシュアにこう語ります。

「私がモーセと共にいたように、あなたと共にいる。」

モーセはすでに死んでいました。

モーセと共に歩んだ世代も、死に絶えていました。

40年という時間が流れ、民の顔ぶれはすっかり変わっていました。

それでも神は「あの時と同じように」という言葉を繰り返したのです。

民が変わっても、世代が替わっても、神の「共にいる」は変わらなかった。

それがこの場面で語られていることです。

向こう岸の民は今日も立っています。

問題は消えていません。

でも神は、今あなたのいるその場所で、同じように語りかけています。

AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】

40年後も同じ問題がそこにある、という場面を読んで、正直少し複雑な気持ちになりました。
「解決した」ではなく「それでも進む」という話なんですよね。
神が「共にいる」と言うとき、状況を変えることを約束しているわけではない。
でも「あなたの傍らに私はいる」という言葉は、状況と関係なく繰り返されているんです。
今日の問い——あなたが今立っている場所で、「消えていないもの」は何ですか。
それとも、消えてほしかったのに残っているものの方が、今は大きく見えているでしょうか。

《参考礼拝メッセージ》

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。
動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ビジネスコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。仕えて生きる方々のために、知恵とツールを共有する。いにしえの叡智を現代人にわかりやすく届ける聖書メッセージに定評がある。

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