地に顔をつけられる人が、次世代へ何かを手渡せる

地に顔をつけられる人が、次世代へ何かを手渡せる

次の世代に何を手渡せるのか、と問う夜があります。
地位も財産も、その問いには答えてくれません。

ヨセフはヤコブの膝から彼らを引き寄せて、顔を地につけてひれ伏した。
(創世記48章12節)

全てを手にした男が、地に顔をつけた

エジプト全土を束ねる大臣の位についたヨセフ。
病床の老いた父ヤコブの前で、彼は顔を地につけてひれ伏しました。
王を除けば、誰もが彼の前にひれ伏す立場でした。
持っていないものは何もない、という状態です。
それでも彼は、父親の前で膝をかがめました。

かつてのヨセフは違いました。
袖の長い晴れ着を着て、兄たちの上に立つことを誇った少年でした。
しかしエジプトで最高位に就いた今、彼は「真ん中に立つことを喜ぶ」姿勢を持っていませんでした。
地位はあっても、それに飲み込まれていなかったのです。

これが、どんなに上っても彼が失わなかったものでした。
ふさわしく歩むこと。
人の前に立つときも、人の前にひれ伏すときも、自分自身の歩みを見失わないこと。
それは地位が与えるものでもなく、地位が奪えるものでもありませんでした。

息子の名前に何を刻んだか

ヨセフは二人の息子に、マナセとエフライムという名前をつけていました。
マナセは「忘れる」という意味です。
「神が私の労苦を忘れさせてくださった」という告白です。
エフライムは「実り豊かな」という意味です。
「神がこの地で私を実り豊かにしてくださった」という感謝です。

奴隷として売られた苦しみも、牢に入れられた歳月も、消したわけではありません。

マナセとエフライム——どちらも消さずに、子の名に刻んだ。

あなたが実際に生きてきたその歩みは、すでに刻まれています。

目次

AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】

ヨセフが父の前でひれ伏した場面を読んで、しばらく動けなくなりました。
エジプト全土の大臣が、です。
持っているものを何一つ失わずに、それでいて膝をかがめられる人って、どういう人なんだろうと考えてしまいました。
「地位が自分を証明してくれる」という感覚から自由になっているとき、人はああいう動き方ができるのかな、と思います。

ヨセフが父の前で地に顔をつけたように、私たちが次の世代に手渡せるのは、自分が実際に生きてきた刻まれた歩みだけです。

今日の問い:あなたが次の世代に手渡したいと思っているもの、それはまだ「持っていない何か」ですか。
それとも、すでに自分のなかに刻まれているものかもしれません。

《参考礼拝メッセージ》

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。
動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ビジネスコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。仕えて生きる方々のために、知恵とツールを共有する。いにしえの叡智を現代人にわかりやすく届ける聖書メッセージに定評がある。

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