過ちの手から、こぼれ落ちない

過ちの手から、こぼれ落ちない

「また同じことをしてしまった。」
そう思う朝が、あるかもしれません。
神の憐れみは、そういう朝のためにある、と聖書は言います。
でも本当に、そうなのでしょうか。

私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。
(詩篇118篇)

ダビデはガドに言った。「それは私には非常につらいことです。私を主の手に陥らせてください。主の憐れみは大きいのです。人の手には陥りたくありません。」
(第一歴代志21章)

目次

「私がやった」と言える強さ

ダビデはイスラエルの人口を数えました。
それ自体は、王として当然の判断に見えます。
戦いに備えるには、数を把握しなければいけない。
合理的な理由は、いくらでも言えた。

でも彼は言い訳をしませんでした。

「私はこのようなことをして大きな罪を犯しました。私は本当に愚かなことをしました。」

「私は」という言葉が、繰り返されます。
サタンに誘われたからではない。
ヨアブが反対したのに無視したからではない。
私がこれをした、と。

誰かのせいにしたほうが楽です。
状況のせいにしたほうが、胸の痛みが少し和らぐ。
それは人間として自然なことです。

でもダビデは、その楽な出口を選ばなかった。
「私がした」と言い切ることが、回復への最初の一歩だったからです。

神の手か、人の手か

過ちを認めたあと、神はダビデに三つの選択肢を出します。
三年間の飢饉。
三か月間、敵に追われること。
三日間、神の裁きが及ぶこと。

どれも「非常につらいこと」です。

ダビデは計算できたはずです。
三か月なら兵力で乗り越えられるかもしれない。
三年の飢饉なら備蓄でしのげるかもしれない。
人の手と知恵で、どうにかなる可能性を探せた。

でも彼はこう言います。
「私を主の手に陥らせてください。主の憐れみは大きいのです。人の手には陥りたくありません。」

これは諦めではありません。
ダビデが知っていたのは、神がどういう方かということでした。
罰を徹底的に執行して終わりにする神ではない。
痛みの中でも、道を残す神だ。
結果が来ても、そこからこぼれ落ちることはない。

その信頼が、彼に「神の手に陥りたい」と言わせました。

「人の評価の中で生きるより、神の前に立つほうがいい。」
それは、人の期待や役割に埋め込まれたまま生きることへの、静かな抵抗でもあります。

覚悟と憐れみは、同時に存在する

「神の憐れみは大きい」という言葉をダビデが口にしたのは、状況がよくなってからではありません。
罰の結果がまだ来る前、つらいことを引き受ける直前に、彼はそう言いました。

答えが出る前に、先に信頼があった。

これは「神の計画を信じれば大丈夫」という楽観とは違います。
「つらい」と認めながら、それでも神の手の中にいるという確信です。

過ちを認めることと、その結果を引き受けることは、別のことです。
認めたからといって、痛みが消えるわけではない。
でも「私は神の手からこぼれ落ちていない」という感覚が、その痛みの中で歩き続ける力になる。

あなたが今抱えている問いや後悔が、どんな重さであっても。
その手の中から、落ちていない。

考えてみましょう

「神の計画を信じなさい」と自分に言い聞かせることと、「神の憐れみはある」と信じることは、どこが違うのでしょうか。

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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