「ここも神のご計画のうち」と言われても——それでも今日を生きるということ

「ここも神のご計画のうち」と言われても——それでも今日を生きるということ

根を張れる気がしない。居場所が決まらない。それでも今日もデスクを開き、家族と夕食を食べ、夜に一人で考える。そんな日々の中に、「意味がある」と言い切れる何かがあるのだろうか。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。それは災いではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、私に祈るなら、私はあなたがたに聞こう。あなたが探すなら、私は見つけられる。(エレミヤ29:12-13)

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「すぐには終わらない」と最初から言った人

エレミヤは、空気を読まない預言者でした。

当時、バビロンに連れ去られたイスラエルの人々に向かって、まわりの預言者たちはこう言っていました。「すぐに終わる。神様が助けてくださるから、そんなに長くは続かない」。希望の言葉です。人々が聞きたい言葉でした。

でもエレミヤは言いました。「70年だ」と。

70年というのは、今そこにいる世代がほぼ全員、死ぬまでの時間です。子どもたちも大人になる。その子どもたちの世代になってようやく、という話です。「すぐ帰れる」ではない。「あなたの生きている間は終わらないかもしれない」というメッセージでした。

慰めにはなりません。少なくとも最初は。

でもエレミヤはそのうえで、こう言い続けました。「だからバビロンで家を建てなさい。畑を耕しなさい。家族を作りなさい。そこの地の繁栄のために歩みなさい」と。捕囚の地、本来いるべきではないはずの場所で、それでもなすべきことがある。「こんな場所に根を張っても意味がない」ではなく、「この場所も神のご計画の1ページだ」と言ったのです。

「神はどこにいるのか」と呼びかけてほしいと願っている神

当時の人々は、神に問いかけることをやめていました。「神様、あなたはどこにいるのですか」と訪ね求めるのをやめて、目の前にある別の何か——木や石で作られた像——に心を向けていった。答えてくれそうなもの、すぐに手が届くものに、気持ちが流れていったのです。

そのとき、エレミヤを通して神はこう語ります。「あなたが探すなら、私は見つけられる」。

これは、命令や試験ではありません。「正しく探せ、そうすれば合格だ」という話でもありません。神の側からの言葉として読むなら、これは切望です。「見つけてほしい」という願いです。「どこにいるのか、と呼びかけてほしい」という声です。

探す側ではなく、「探されたい」と願っている神。その構図は、宗教的権威が人を試す構図とはまったく違います。力を持った側が、力を持たない側に「来い」と命じているのではない。むしろ逆です。「私はここにいる。見つけてほしい」と待っている。

70年という時間の中で、バビロンという異国の地の中で、それでも今日という1日は神の手の中にある——それがエレミヤのメッセージの核心でした。

考えてみましょう

「神様、あなたはどこにいるのですか」と声に出してみることは、あなたにとって降伏に感じるでしょうか。それとも、何か別のことに感じるでしょうか。

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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