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25年間、召しに従ってここにいると思ってきた。でも、正しい場所に立ち続けることで、何かが「固まって」しまっていないだろうか。ザアカイの物語が、その問いを静かに突いてくる。
「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしてあるから。」
木の上から、人々は正しかった
ザアカイには関心があった。
「あのイエスとはどんな人物か、見てみたい。」ただそれだけで、木に登った。招かれるとは思っていなかった。変えられるとも思っていなかった。
そしてザアカイを阻んだ群衆も、彼を見下ろす側の人々も、正しかった。彼らはザアカイが何をしてきたか、知っていた。取税人のかしら。ローマの手先。同じユダヤ人から税を搾り取り、その上前をはねて財を積んできた男。
「向こう側の人間だ」という判断は、事実に基づいていた。
だからこそ、イエスがザアカイの家に向かったとき、群衆は怒った。「あの方は罪人のところに行って客となった」と。
彼らは間違っていなかった。ただ、線を引いていた。正しい側と、そうでない側に。その線の内側に立つことで、自分たちが変えられる必要がないことを確かめていた。
イエスは線を越えた
「こちら側に来い」とは言わなかった。
自分から、向こう側へと踏み込んだ。名前を呼んで、「今日あなたの家に行く」と言った。
ザアカイはその瞬間、長い神学的な議論も、十分な準備も、完全な悔い改めの言葉も持っていなかった。持っていたのは、木の上から見ようとした、ほんの小さな関心だけだった。
それで十分だった。
イエスが客として来てくださると知った瞬間、ザアカイの中で何かが動いた。「私はこの財産を、良いことで積み上げたのではない。」それを自分で言葉にして、動き始めた。説得されたのではない。長い教えを受けたのでもない。名前を呼ばれて、食卓を共にされた——その生きた関わりが、彼の歩みを動かした。
正しい側に立ってきた人へ
問いたいのはここだ。
25年間、線を引く側ではなく、正しい側に立とうとしてきた。行政の論理を批判し、聖書的でない動き方を指摘し、誠実に地域と向き合ってきた。それは本物だ。
でも、正しい側に立ち続けることで、「自分が変えられる必要がない」という場所に、いつの間にか座っていないだろうか。
群衆は正しかった。でも、イエスと同じ方向を向いていなかった。
朝のデボーションで聖書を開くとき、「完成した牧師」として開いているのか、それとも木の上からほんの少し見たかったあの男のように、揺れる関心のまま開いているのか。
ザアカイは準備ができていなかった。それでもイエスは「今日」と言った。
「そんなつもりじゃなかった」が「あれでよかった」に変わるのは、自分の計画が整ったときではない。名前を呼ばれたとき——それが今日かもしれない。
考えてみましょう
あなたが正しいと思って立っている場所は、あなたをそこで「固めて」いないだろうか。
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