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25年間、ずっと「正しいこと」をしてきた。祈り、語り、地に足をつけて立ち続けた。それなのに、なぜ帰り道はこんなに重いのか。「従う」とはいったい何なのか。エレミヤ書は、その問いの真ん中に静かに降りてくる。
「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。」
(エレミヤ書42章)
「聞き従います」という言葉の重さ
ヨハナンたちは答えを決めていた。
バビロンに占領されたユダの地に残った彼らは、エジプトへ逃げることをほぼ心に決めていた。でも、エレミヤに「本当にそれでいいか聞いてみよう」とお伺いを立てに来た。「必ず行います。良くても悪くても聞き従います」と口にした。
10日後、神の言葉が来た。「エジプトに行くな。ここに留まれ。わたしが土台を据え、根を張らせる。」
そしてヨハナンたちは——エジプトへ下った。
ここで恐ろしいのは、彼らが「嘘をついた」という話ではない。もしかしたら、あの言葉を口にした瞬間、彼らは本気でそう思っていたのかもしれない。でも既に答えは決まっていた。「聞き従います」は、自分が聞きたい答えを神様に確認しに行くための言葉だった。
批判する声と、逃げていく声は、同じ口から出ていた
エジプトへの逃走には、もう一つの層がある。かつてマナセ王の時代、天の女王を礼拝していた頃の記憶だ。街は栄え、享楽にあふれていた。彼らはその「良かった時代」を取り戻したかった。
注目したいのは、エジプトへ下ろうとするこの同じ人々が、少し前まで「神に従わない者たち」を批判する側にいたかもしれないという構造だ。「聞き従います」と明言した者が、エジプトの幻に引き寄せられた。現実の苦難から逃げる時、人は「戻れる場所」の幻を持っていく。そしてその幻への引力は、批判の声が大きいほど強いことがある。最も激しく何かを退けようとする人間が、実は最もそこに引き寄せられているという逆説を、この物語は静かに映し出す。
批判することと、逃げることは、同じ根を持っているかもしれない。
エレミヤは語り続けた。聞かれなかった。反感を買った。「不吉な予言ばかりするな」と攻め立てられた。それでも語り続けた。理由はただ一つ、「神が語れと言われたから」だ。
「良くても悪くても」は、まだ問いとして残っている
回復は一晩で来ない。嘆きの中から一つずつ導かれて、やがて回復に至る。そのプロセスの中で問われるのは、「神に従い続けるかどうか」だ。嘆き続けることでも、安易な逃げ場を探すことでも、過去の享楽を夢見ることでもない。
「良くても悪くても」——ヨハナンたちが口にして、できなかった言葉。その言葉が、エレミヤが語り続けた理由だった。報われなくても、聞かれなくても、従い続けること。聖書はその問いを、正解として差し出すのではなく、「あなたはどうか」という問いとして、静かにこちらへ返してくる。
考えてみましょう
「従います」と口にしたあの瞬間、自分の中ではすでに答えが決まっていた——そう気づいた時が、あなたにもあるだろうか。
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