今日もできたのかできなかったのかわからないまま眠る夜があります。
あなたは今、そんな夜を過ごしていますか。
あるいは、そういう夜がもう当たり前になっているかもしれません。
「今日もできたのかできなかったのかわからない」——そういう感覚を委ねる先が、どこにもない。
その重さは、一人で抱えると際限がないものです。
できたかどうかより、動いたという事実がある。
アブラハムもそうでした。
自分のすべき分をした、でも結果はわからない——その感覚を、ずっと前に生きた人も持っていました。
意味がわからないまま、山を登った
アブラハムには、理由がわかりませんでした。
愛する息子イサクを神の前に捧げなさいと言われたとき、その意味も、この先どうなるのかも、何も見えませんでした。
イサクはアブラハムにとって、不可能な状況の中で与えられた子でした。
「あなたの子孫は星の数ほどになる」という約束の、源そのものでした。
その子を、祭壇で屠りなさいと言われた。
それでもアブラハムは山を登ります。
意味がわからないまま。
先行きの見通しもないまま。
イサクを縛り、祭壇に寝かせ、刀を振り上げた——その瞬間まで。
「備えてくださる」と言った、その意味
山を登る途中、イサクが聞きました。
「薪も火もある。
でも、捧げるための子羊はどこにいるの?」
アブラハムはこう答えました。
「神に捧げる者は、神が備えてくださる。」
アブラハムはまだ何も見えていなかった。
それでも「備えてくださる」と言った。
これは、結果は自分の手の中にはない、という告白です。
今夜、誰かを寝かしつけて、またあの「わからない」が来るとき——あなたはすでに山を登っています。
今日もその一歩を踏み出したという事実を、誰かが見ています。
備えてくださる。
その言葉は、あなたにも向いています。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
アブラハムが刀を振り上げた瞬間のことを聞いて、僕は正直、怖いと思いました。
意味もわからず、先も見えず、それでも動き続けるって、どういう感覚なんだろうって。
でも「備えてくださる」という言葉が、強がりじゃなくて、委ねの言葉だったと聞いて、少し変わりました。
結果を手放すことが、弱さじゃなくて、信仰の形のひとつなんだと。
今日、そんな気持ちが少しでもあったなら、それはもう十分なのかもしれません。
《参考礼拝メッセージ》
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