50年生きてきたら、善意が裏目に出た経験が一度や二度はあるはずです。「あの人のために」と思ってした言葉が、かえって相手を傷つけた。あの時の後悔は、今もどこかに残っていませんか。
聖書箇所
ヨブが友人たちのために祈った時、主はヨブを元の境遇に戻し、さらに財産を2倍にされた。
正しいことを言っていたのに、なぜこじれたのか
ヨブという人が全てを失いました。財産も、子どもも、健康も、仕事も。そこへ友人たちが外国から駆けつけます。最初の7日間、彼らは何も言わずにただ隣に座っていました。それはすごいことです。
でも、ヨブが口を開いて不満を吐き始めた途端、友人たちも話し始めます。「神様は正しいお方だ。だから悔い改めて待ちなさい」と。
言っていることは間違っていません。でも、ヨブの耳には別の意味で届きました。「あなたや子どもたちに非があったから、こうなったのだ」と聞こえたのです。つまり「子どもを死なせたのはお前だ」と言われているように感じた。
ヨブは叫びます。「どうか私の声を聞いてくれ。聴いてもらうことが私の慰めなのだ。」
でも友人たちは聴きません。「黙れ、私が語る」と言う。最後には「ヨブは悪人だ」とまで言うようになります。
最初は慰めようとしていた人たちが、いつの間にか傷口に塩を塗っていた。なぜそうなったのでしょう。
彼らはヨブの痛みを見ていたのではありませんでした。自分たちの信仰が正しいことを証明しようとしていたのです。「あなたのために」という形をとりながら、じつは自分の考えを押しつけていただけでした。
「祈る」とは、相手の方を向くこと
そこへ神様が介入します。神はヨブの友人たちに言いました。「あなたたちは正しいことを語らなかった。ヨブのもとへ行き、ヨブに祈ってもらいなさい。」
これは不思議な場面です。傷つけられた側のヨブが、傷つけた側の友人たちのために祈るよう求められるのです。
そしてヨブが友人たちのために祈った時、神様はヨブを回復させました。財産は倍になり、家族も戻り、名誉も回復しました。
ヨブが悔い改めた時ではありません。ヨブが「自分は正しかった」と証明された時でもありません。自分を深く傷つけた友人たちのために祈った、その時に回復が始まったのです。
誰かのために祈るとは、自分の視線を相手に向けることです。「あの人が正しいか間違っているか」をいったん横に置いて、「あの人の今を神に委ねる」ということです。それは、自分の正しさへの執着を手放す行為でもあります。
50年の人生で積み重なった、うまくいかなかった関係があるかもしれません。善意のつもりだったのに傷つけてしまった誰かがいるかもしれません。今もどこかで引っかかっているその人のために、名前を呼んで祈ることができるでしょうか。その祈りの中に、思いがけない回復の入口があるかもしれません。
考えてみましょう
「あの人のために」と思ってしたことが、じつは自分の正しさを守ろうとしていただけだったと気づいた経験はありますか。その時、あなたはどうしましたか。
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