0214 自分に厳しい人が他人に優しくなれるためには

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どうも、早起き牧師の中澤信幸です。

 

2017年12月14日木曜日、第214回目の放送です。

 

イエス・キリストのたとえ話で、放蕩息子のストーリーを紹介します。

 

 

[note]

2017年12月14日木曜日、第214回目の放送、お相手は中澤信幸です。

 

放蕩息子のたとえ話

イエス・キリストのたとえ話の中に、放蕩息子と呼ばれるストーリーがあります。これは、ある人たちには非常にウケの良い話なんですが、ある人たちには非常に評判の悪いたとえ話でもあります。中身はこうです。

2人の兄弟がいます。弟の方が父の財産を譲り受けることを生前に申し出ます。「お父さん、私に財産の分け前をください。」父親はそれを承諾して、遺産の半分を弟にわけ与えます。弟は、出て行って遠いところに行き、好き放題に生活をして、その財産を全部使い果たしてしまうんです。非常に惨めな姿になったその時に、家に帰ろう、と。しもべの一人にしてもらって、使ってもらおう、と。そんな思いで、弟は帰ってきたわけなんですね。

お父さんは、出ていった弟のことを心配していました。なので、その弟の姿が向こうの方に見えてきたときに、走り寄って行って、そして抱きついて、口づけをして、「よく帰ってきた」と言って歓迎するわけです。「さあ、あなたが帰ってきたのだから、私たちは祝宴を開こう」と言います。

 

お兄さんの複雑な思い

それで、面白くないのはお兄さんの方です。なんでお父さんはこんなことをするのか、弟のためにこんなことをするのか、私のためには何一つしてくれたことがないのに、そういうふうに不平を言うわけですね。お父さんは、お兄さんの気持ちを理解するのですが。「私はお前のためにすべてを与えているではないか。でも今は、弟が帰ってきたことを一緒に喜ぼう。というのは、この弟はいなくなっていたのが帰ってきた、死んでいたのが取り戻されたんだ」言って、弟の帰りを喜びます。

そういうたとえ話でした。このたとえ話は、父なる神が、人間が神のもとに帰ってくることを喜ぶ、そういう姿を現したものです。

 

自分に厳しいゆえに他人にも厳しい

で、さっき、評判が悪いって言いましたけど、どうもお兄さんたち、お姉さんたちには、なかなかしんどいたとえ話のようですね。私は弟として育ったので、「そうだよな」って思うんですけど。お兄さんとか、お姉さんの立場で歩んでこられた方は、「結局そうなんだよな、いつも良いことをして、頑張って歩んできた私たち兄とか姉とかの方が損するんだよな」って、どうも思うらしいんですね。

その時のメンタリティーというか、心の状態がどういうことなのか、って少し考えてみましょう。おそらく、正しく歩んでいる人ほど寛容になりにくい、っていう側面があるだろうと思います。正しくあろうとしている、人に喜ばれようと歩んできた、そのように気をつけてきた人であればあるほど、なんで間違えた人のそんなことを許すことができるか、間違えてはいけないじゃないか、と。正しくなければいけないじゃないか、と。寛容になれない側面が出てくるわけですね。自分に厳しいゆえに他人にも厳しいいうことです。

 

私も不完全でありながら

このイエス・キリストのたとえ話は、実は人はみんな不完全なものとして、しかし許されて神に受け入れられるということを伝えます。クリスチャンの中に2種類の人がいるわけではないんです。正しくて正統的に神様に認められてクリスチャンになった人と、不完全ながらもおまけでクリスチャンになった人がいる、ということではないのです。誰もが、神様の前にゆるしを受けて、不完全でありながらクリスチャンになった。誰もが同じだ、ということが明示されています。

そんなわけなので、私たちは自分が不完全なのを許されている、ということを知るときに、人に対しても寛容になれることを経験していくわけです。人に対して厳しくあろうとする自分についても、私も不完全でありながら許された者だしな、と思うことで、他人に厳しい面が和らいでいく、ということです。

そんなふうにイエス・キリストのたとえ話の中にも、弟に厳しく怒りを感じるってことが出てきて、それは自分も許されるという経験の中で、どうも解消していくようです。

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中澤信幸(キリスト教牧師✕ライフコーチ)

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