どうも、あなたのサーバント中澤信幸です。
2018年8月2日木曜日、第379回目の放送です。
ひとを赦すことについて、イエス・キリストの名言を紹介します。
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何度まで赦すべきか
イエス・キリストと弟子の一人ペテロとの会話が、聖書にこう記されています。
ペテロが聞きました。「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか」ペテロにしてみれば、いいことを言ったな、と思っていたことでしょう。自分の仲間が、自分に対して、嫌なこと、悪いこと、罪を犯したとき、私は赦してあげようと思うんです。何度まで赦せばいいでしょうか。私は7度も赦そうと思っています。そういう思いです。
7度を70倍するまで赦すように
しかし、イエスはこう答えました。「7度までなどとは、わたしは言いません。7度を70倍するまでといいます」7度を70倍するまで、これは結局、人は赦したことを誇ることなどできないのだ、ということを言っています。
ペテロは、自分にとって最大の7度までと言いました。しかし、7度までなどとはイエスは言わない。あなたが7度と言うなら、その7倍、いやさらに10倍の70倍まで赦すように、と言うのです。
あなたが限界だと考える、さらにさらにその先の所まで赦すように。そうしたのでなければ、人を赦したなどといって誇ることはできません。
赦されたのに赦さない人
その後に続いて話されたのが、赦さない人の例えでした。人に多くを赦してもらっているのに、自分はわずかなものも赦さない。たとえに出てくるのは、王に莫大な借金を免除してもらったのに、自分に借金のある者のところに行って、わずかの借金を取り立てる愚かな姿が語られます。
そのたとえによって、赦されているのだから、人を赦すべきなのだ、ということが教えられています。私は、人を赦しました、などといって誇ることはできません。赦されたのだから、赦すのは当然なのです。しかも、神が私を赦してくださったように、というのであれば、7度を70倍してもなお足りません。人を赦すことは、私たちにとって必然である、ということですね。神に赦された者であることを、いつも忘れないようにしたいと思います。
確かに、私にとって赦しがたい人がいます。あのことを思い出せば、赦すだなんてとんでもない、と感じるケースもあるでしょう。それでも、私が神様の前にどのようなものであり、どのように赦されてきたのか、そのことを思い出しましょう。自分の態度も、また自ずから決まってくるのではないでしょうか。赦すことは難しいことですが、大切なこととして、いっしょに取り組みたいと思います。
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