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毎日、誰かのために動いて、誰かのことを心に抱えて。そうやって過ごしているのに、気づけば「なぜ自分の周りはこんなに大変なのだろう」という思いがじわりと滲んでくることはないでしょうか。その重さは、本物です。あなたが抱えているものは、確かにそこにある。では、その重さをどう受け取ったらいいのでしょう。
聖書の言葉をひとつ。
野のゆりのことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし私はあなた方に言います。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし今日は野にあって明日は炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなた方には、どんなに良くしてくださることでしょう。
(ルカの福音書12章27〜28節)
あなたが装っているのではない
「自分が十分かどうか」を、誰かと比べて測ってしまうことがあります。SNSを流れてくる誰かの生活。楽しそうな家族の様子。輝いて見える人たちの日常。それを見て、なんとなく自分の現在地を確かめてしまう。「あの人に比べたら」「うちはなんでこうなんだろう」という気持ちが、じわりと心に入り込んでくる。
イエスはその「比べる基準」のことを、「自分のために」という言葉で指しています。「自分が安心できる水準」「自分が満足できる基準」。その基準に満ちているかどうかで、今日の自分を判断してしまう。でもそれは、神を知らない人たちのやり方だとイエスは言います。冷たく突き放しているのではありません。「あなたには、もっと別の根拠がある」と言っているのです。
野のゆりは、自分を装わない
野のゆりは、何もしていません。美容室にも行かない。クローゼットの前で悩みもしない。自分を大きく見せようともしない。ただそこにある。それなのに、あの栄華を極めたソロモンでさえ、その一枚の花びらほどにも着飾ることができなかった。
これはきれいごとではありません。「神があなたを装う」という宣言です。あなたがどう見られるかを、あなた自身が必死に管理しなくていい。神がご自分の愛情を込めて、あなたを最もふさわしい姿に整えてくださる。
誰かのために地道に動いていても、表立って評価されるわけではない。そういう働き方をしている人がいます。職場でも、家庭でも、教会でも。そういう人の姿は、この野のゆりと重なります。自分で主張しなくても、自分で証明しなくても、神の目にはしっかりと留まっている。
「背負わなくていい重さ」がある
「心配したからといって、命を一瞬も延ばせない」とイエスは言います。この言葉、初めて読むと少し冷たく感じるかもしれません。でもそうではありません。「あなたが背負わなくていい重さがある」という言葉として受け取ってみてほしいのです。
子どものこと、孫のこと、夫のこと。祈りながら見守りながら、それでも何もできないと感じる時があります。その無力感はリアルです。でもイエスは言います。「神はあなた方がそれを必要とすることを、ことごとく知っておられる」と。あなたが全部解決しなくていい。神がご存知なのです。
心配が消えるわけではありません。それでも、心配のすべてを自分ひとりで抱えなくていい。そのことを、今日静かに受け取ることができるとしたら。あなたが誰かのために動いてきた今日この日も、神の目の前にあります。見えないところで、ちゃんと見られている。
考えてみましょう
「自分が十分かどうか」を測る基準は、いったい誰が決めたものでしょう。その基準を少し横に置いたとき、今日の自分はどんな姿に見えるでしょうか。
参考礼拝メッセージ
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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