愛のルールとしてのレビ記
レビ記は一見すると面白くない書物に思えるかもしれません。「何が清い、何が清くないか」という細かい規定が延々と続き、多くの読者が途中で挫折してしまう箇所です。しかし、レビ記は実は「愛のルール」なのです。神様と私たちの間の特別な関係を規定する書物であり、神の民がどのように聖なる生活を送るべきかを教えています。
レビ記の前半(1-10章)では、どんな時に、何を、どうやって、誰が生贄を捧げるのかという規定が書かれています。そして11-15章では「清さとは何か」が詳しく説明されています。これらの規定はすべて「清さ」という概念に基づいており、神の民が神との関係の中でどう生きるべきかを示しています。
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清さとは区別すること
レビ記における清さの概念を理解するためには、「区別する」という行為が重要です。清さとは、神の側にあるものとそうでないものを区別することから始まります。象徴的に言えば、一本の線を引き、神の側にあるものを「清い」もの、そうでないものを「汚れている」ものとして区別するのです。
例えば食べ物について言えば、「ひづめの分かれているもの」「反芻するもの」は清いとされます。これには衛生上の理由もあるかもしれませんが、本質的には「神の側にあるものを選ぶ」という象徴的な意味があります。
神の聖さに倣う生き方
レビ記11章45節には重要な言葉があります:「私はあなたがたの神となるためにあなた方をエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなた方は聖なるものとならなければならない。私が聖だからである。」
神様は聖なる方であり、私たちも聖なる者となるように求められています。 神様は良いものと悪いものを見分け、良いもののために約束をし、それを実行される方です。エジプトから民を救い出し、海を分け、荒野でマナを与え、岩から水を湧き出させた神様は、常に民の幸いのために行動されました。
一方で、エジプトの力、厳しい天候、金の子牛などは民を導くことができませんでした。神様だけが真に民を導くことができたのです。そして神様は私たちにも、同じように「何が良いのか、正しいのか」を見極めながら、神様のために生きることを求めておられます。
愛の贈り物としての聖さ
この関係は、大切な人にプレゼントを送ることに似ています。プレゼントを贈る時、私たちは相手が何を喜ぶかを考え、それを約束し、そして実行します。時には障害があっても、相手を思う気持ちから犠牲を惜しまず行動するのです。
神様も同じように、私たちのために最善を尽くしてくださいました。神様と私たちの関係は、互いに心を尽くして贈り物を送り合うような特別な関係です。 神様が私たちのために心を尽くして用意してくださる恵み、そこに生かされる私たちが神様のために心を尽くして捧げていく歩み—この相思相愛の特別な関係に私たちは招かれているのです。
聖なる歩みの課題
神様と心を通わせて歩む時、私たちはさまざまな困難に直面します。正しいことを見分けることの難しさ、神様のために何かを約束することへの躊躇、そして実行する際の誘惑や罪の問題など、多くの障害があります。
しかし、神様の御言葉を聞く中で、私たちは一歩前進することができます。神様の励ましや促しを受け取りながら、この「愛のルール」に招かれて共に歩んでいくのです。
まとめ
レビ記は単なる規則の書ではなく、神様と私たちの間の愛の関係を示す書物です。神様の聖さに倣い、神様の側にある者として生きることが、私たちへの招きなのです。
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