レビ記における愛のルール
レビ記は神様が私たちを愛してくださり、その愛が貫かれていくためのルールと理解することができます。前回は「清さ」について学び、神の側に置かれることが「清い」ということであり、神様が私たちを清い側に置くために労されたことを見ました。今回は、この愛のルールの中で特別な位置を占める「贖いの日」について考えていきます。
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贖いの日は、1年に1度、罪が贖われる特別な日であり、ヘブル語で「ヨム・キプール」と呼ばれます。 この日は、イスラエルの民にとって代々親から子へ、子から孫へと語り継がれ、守られるべき永遠の掟となっています。
贖いの日の意味
レビ記16章29-34節によれば、第7の月の10日に定められたこの日には、すべての人が自らを戒め、いかなる仕事もしてはならないとされています。なぜなら、この日は「あなた方を清めようと、あなた方のために贖いが行われる」からです。
贖いとは何でしょうか。それは、何かが大きく揺れ動いている状態を沈め、治めることです。罪に関する贖いについて、まず2つの誤解を解いておく必要があります:
- 「神は人の罪に怒っておられる」という誤解
- 「贖いの生贄が神の怒りを贖う」という誤解
実際には、神は一つ一つの罪を犯した人に怒っているのではなく、罪の現実に心を痛めておられるのです。 神様は世界を良いものとして創造され、それを見て満足されました。しかし、人が神の言いつけに背くことで罪が入り、人間関係が傷つけ合うものになっていく姿を見て、神様は心を痛められました。
神の内側での贖い
神は罪の現実を見て、「もうこんなものはない方がいい」と全てを消し去ろうとされましたが、心を入れ替えて人を生かすことを選ばれました。神は罪の現実から人を救い、ご自分の清い側に招き入れるために、ご自身の力を注がれています。
神は罪そのものを憎むかもしれませんが、罪人を憎むのではなく、罪の現実に心を痛めておられるのです。 そして、その罪ある現実から人を救い、良いものへと導こうとされています。
この「もう滅ぼしてしまおうか」という思いから「いや、救い導こう」という思いへの距離を縮めるのが「贖い」なのです。神様ご自身の内側で、痛ましい罪の現実を前に、怒って滅ぼすのではなく、確かな身業の中に良きものを回復しようと心を贖めて移っていくのです。
贖いの儀式
贖いの日の儀式は、神様が私たちのためにしてくださっていることを私たちが理解し、それにふさわしく歩むためのものです。儀式の中心となるのは2頭のヤギです:
- 一頭目のヤギは神の前に捧げられ、その血が贖いの蓋に塗られます。これは「私たちの命は全てあなたのものです」という礼拝の表現です。
- 二頭目のヤギ(アザゼルのヤギ)は、祭司が手を置いて民の罪を告白し、その罪を背負わせて荒野に放ちます。これは「私たちの罪はもう私たちのうちにとどまらない」ことを象徴しています。
この儀式を通じて、私たちは神の前に「私の全てはあなたのものです」と捧げ、「私にはふさわしくないものがあります」と告白し、「あなたがそれを清め、取り去ってくださる」ことを確認するのです。
イエス・キリストによる完全な贖い
レビ記に記された贖いの日の儀式は、年に一度の特別な出来事でした。しかし、神の救いの計画はそこで終わりませんでした。イエス・キリストは私たちのために神の前に贖いの備えとなられました。
イエス・キリストにおいて、私たちは神のものとされ、私たちのふさわしくないもの全てを知りながらも、それを取り除いて許し、私たちを清め整え導いてくださるのです。 そして、イエス・キリストは今や私たちの心のうちに住み、私たちと共に歩んでくださいます。
これは年に一度の馴染みのない儀式ではなく、毎日の生活に密着した形で体験できる救いです。私たちはイエス・キリストにあって、日々神のものとされ、ふさわしくないものをふさわしいものへと作り替えられていくのです。
神が私たちの罪に心を痛められ、ご自身の元に迎え入れ、導いてくださるという素晴らしい愛に招かれている喜び—それは平たく言えば「愛されている喜びを知る」ということなのです。イエス・キリストによってこの喜びを知り、その中に私たちの歩みが置かれているのです。
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