召されたはずなのに、成果が見えない。そんな日が続くとき、「これは本当に私の使命なのか」という問いが大きくなりませんか。
人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして3日目によみがえらねばならないのです。
(ルカの福音書9章22節)
「キリストだから業を行う」のか、「業を行うからキリスト」なのか
イエスが弟子たちに問いました。「群衆は私のことを誰だと言っていますか。」
群衆は直前に奇跡を経験していました。5つのパンと2匹の魚が、何千人分にも広がった。あの場にいた人たちです。その人たちが出した答えは「エリアのような預言者ではないか」でした。
なぜそう答えたか。業を見たからです。すごいことをする人だから、すごい人に違いない。それが彼らの論理でした。
ペテロは違う答えを出しました。「神のキリストです。」
イエスとともに食事をし、教えを受け、神の権威を託されて村々に遣わされた。群衆よりずっと深く、この方を知っていた。だからこその告白でした。
しかしイエスはその直後、こう続けます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺される。」
これはペテロにとって、崩壊するような言葉だったはずです。キリストとはもっと栄光に満ちた存在のはず。賞賛され、王座に就く存在のはず。なのに「捨てられ、殺される」とは何か。
アイデンティティが先で、行動は後
ここでイエスが示したのは、逆向きの構造です。
群衆の論理は「業を行うからキリストだ」でした。実績があるから認められる。成果があるから価値がある。
しかしイエスが語ったのはその逆でした。「キリストであるゆえに、人々に手を伸ばす。キリストであるゆえに、この道を進む。捨てられ殺される道でさえ、キリストとして歩む。」
業がアイデンティティを作るのではない。アイデンティティが業を生む。
祭司長や律法学者たちに捨てられることは、当時の人々の目には「呪われた者の証拠」でした。キリストの否定証拠に見えた。しかしイエスはそこに「だからキリストではない」とは言いませんでした。むしろ「キリストだからこそ、この道も進む」と言ったのです。
うまくいかないことは、召しの否定ではないかもしれない
認められない。集まらない。2年経っても前が見えない。
そんな現実の中で「これは本当に神の召しなのか」という問いが出てくるとき、私たちはどこに立っているでしょうか。
実績がないから、召しを疑う。人が来ないから、使命を問い直す。それはもしかしたら、群衆と同じ論理の上に立っていることかもしれません。「業を見てキリストと判断した」あの人たちと、同じ場所に。
イエスが弟子たちに示したのは、もう一つの立ち方でした。「私はこれをする者だ。だからこれをする。結果がどうであれ、その道を進む。」
結果がアイデンティティを決めるのではない。アイデンティティが、結果のいかんにかかわらず、今日の一歩を決める。
あなたが今いる場所で、「私はこれをする者だ」という確信は、どこから来ているでしょうか。
考えてみましょう
今日の行動の根拠はどこにありますか。「うまくいっているから続ける」という場所に立っているか、「私がこれをする者だから動く」という場所に立っているか——その違いは、今日の最初の一歩をどう変えるでしょうか。
参考礼拝メッセージ
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

コメント