25年間、神と人の間に立ち続けてきた。それは本物の重さだ。礼拝を整え、地域に出ていき、誰かの傍らに座り続けてきた。それでも、自分自身の試練の意味を問い直せているだろうか。
聖書はこう語っています。
ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる
高い上から、ではなく
大祭司とは、神と人の間を行き来する者だ。人から生贄を預かって神の前に出る。神から赦しの宣言を受けて人のもとに戻る。聖書はイエスをこの大祭司として描いている。
しかしこの大祭司は、遠い高みから「さあ、登ってこい」と綱を垂らすような救い方はしなかった。人として生まれ、家業を手伝い、疲れ、迷い、同じ肌の温度で歩んだ。
その上で問われるのは、傷の中身だ。
イエスが受けた苦しみは、「正しく生きてきたのに、なぜ」という構造を持っていた。神のひとり子が、神から最も遠いとされる十字架の死へ向かう。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」——この言葉は、正しくあるべき者が理不尽な場所に置かれた時にしか出てこない叫びだ。
誰もが「なぜ私だけが」と問う。しかしイエスは、その問い自体を他の誰よりも深く引き受けた。だからこそ、同じ場所にいる人の傍らに立てた。
傍らに立てるのは、同じ場所を知る者だけ
礼拝を終えて家に帰る人々の現実は、何も変わっていない。出ていく前と同じ仕事、同じ関係、同じ行き詰まり。それでも、帰ってきた人の耳には宣言が残っている。「私はあなたとともにいる」。
その宣言を届けられるのは、自分も同じ場所を歩んだ者だけだ。
25年間かけて一人ひとりに向き合ってきた時間の重みは、本物だ。しかしそれと同時に、自分自身が「なぜ私が」と問うた夜の記憶も、本物だ。行政の部屋を出た帰り道の重さも。深夜の天井も。
その葛藤は、捨てるべき弱さではないかもしれない。むしろ、誰かの傍らに立つための場所を、あなたの中に作り続けているのかもしれない。
正しくあろうとして歩み続けてきた者が、その正しさの真ん中で問われた——その場所で初めて見えてくるものが、このメッセージには描かれている。
考えてみましょう
あなたが誰かの傍らに立てた瞬間を振り返ったとき、そこにはどんな「自分自身の痛み」が先にあったでしょうか。
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