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正しく生きているのに、なぜか孤独を感じる。そんな夜、あなたはどんな言葉を自分に向けているでしょうか。
「その日、わたしは答える。……愛されなかったものを愛し、わたしの民でないものに向かって『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたはわたしの神』と言おう。」
(ホセア書2章21〜23節)
罰ではなく、「もう一度」だった
神がイスラエルの民に語りかけた言葉は、叱責ではありませんでした。
「何をしていたんだ」「私への裏切りじゃないか」「ただで済むと思うか」——そういう言葉ではなかったのです。
何度も何度も裏切り続けた民に、神が言ったのはこうです。
「荒野に連れて行き、優しく語ろう。」
荒野というのは、何もない場所です。実りも、水も、誰かの評価も、ない。そこで神は静かに、語りかけようとした。
しかも乾いた荒野を「ブドウ畑にする」と言います。血が流れた凄惨な場所を「望みの門にする」と言います。条件はなにもありませんでした。「あなたが十分に反省したから」でも「正しく歩んできたから」でもない。「わたしがそうする」という、一方的な宣言でした。
名前を、言い直された子たちのこと
ホセアには三人の子どもがいました。
その名前がこうです。「イズレル」「愛されないもの」「私のためではないもの」。
生まれた瞬間から、その名前を背負わされた子どもたちです。自分では何もしていない。ただそう呼ばれていた。
でも神は、その名前を全部、言い直します。
「愛されないもの」を「愛する」と言う。「私のためではないもの」を「あなたはわたしの民だ」と言う。
ふさわしかったから、ではありません。何かを証明したから、でも、改善したから、でもない。
「愛さずにいられない」という、神のご性質のゆえに、愛すると言うのです。
これは、正しさで積み上げてきたものとは全然違う話です。
誰かの役に立っているとき、ちゃんと答えを出せているとき、知識を正確に伝えられているとき——そういうときだけ自分の存在を肯定できる、という生き方とは、真逆の話です。
荒野で語りかけてくる神は、あなたの実績を聞きに来たわけではありませんでした。乾いて、何も実らないその場所に来て、「優しく語ろう」と言う。
疲れきって、答えも出ない、誰にも言えない深夜の自分——そこに届く言葉が、聖書にはあります。
義務として正しく生き続けてきた人間に、「もう一度」と語りかける神のことが、ホセア書には書かれています。
あなたが心の中で自分につけている名前は、何でしょうか。
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