「気づかれなくても、ずっと見ていた」——消えない哀れみについて

「気づかれなくても、ずっと見ていた」——消えない哀れみについて

哀れみ、という言葉を、久しぶりに読んだ気がする——そう感じる人に、この記事を届けたい。

「わたしの心はわたしのうちで湧き上がり、わたしは哀れみで胸が熱くなっている。」
(ホセア書11章)

目次

気づかれないまま、手を伸ばし続けた神

「彼らは、私が癒したのを知らなかった。」

ホセア書11章の中で、神はそう語ります。

歩くことを教えた。腕に抱いた。傷を癒した。それでも民は、気づかなかった。振り返らなかった。どんどん遠ざかっていった。

近づいたのに、届かなかった。手を伸ばしたのに、気づかれなかった。

これは、神の孤独の告白です。

民はその後、自分たちの選択の結果を引き受けることになります。アッシリアという大国が攻め込んできて、国は征服されていく。背き続けた歩みの結末です。

本来であれば、そこで終わりのはずでした。旧約聖書には、「ソドムとゴモラ」という街の話が出てきます。罪が積み重なり、草の根一本残らないほどに焼き尽くされた街です。民もまた、同じように扱われても不思議ではなかった。

でも——神はそうしなかった。

怒りではなく、哀れみが燃えていた

神は言います。

「エフライムよ、私はどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを見捨てることができようか。」

これは問いかけではありません。「そんなことは、私にはできない」という叫びです。

「わたしは哀れみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りにしたがって行動しない。わたしは神であって人ではない。」

「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉があります。愛情を注いだのに裏切られたとき、人の心には怒りが燃え上がる。神の愛の大きさを思えば、その怒りはどれほど激しいものになるか。

でも神の中に燃えていたのは、怒りではありませんでした。哀れみでした。

哀れみというのは、悲しみです。滅びていく民を見て、神の胸は悲しみで熱くなっていた。ほうっておくことができない。このままにしておけない——その思いが、心の中で沸き返っていた。

気づかれなかった献身が、なかったことにはならない

「彼らは、私が癒したのを知らなかった。」

この一文が、静かに刺さります。

あなたが近づいた。相手は気づかなかった。それでもあなたはそこにいた。その事実は、消えません。

気づかれなかったことと、なかったことは、違います。

見えない場所で続けてきた努力。誰にも評価されなかった判断。伝わらなかった気持ち。正式には何も起きなかったことにされた経験。「それなりにうまくやっている」という言葉の裏側に押し込めてきたもの。

神は「気づかれなかった」と言いながら、それでも見ていた。記憶していた。書き記した。

この聖書の言葉は、前8世紀に生きた民の話として書き残されています。でも同時に、気づかれなかったすべての献身の記録でもあります。

ひとつの問い

あなたがこれまで誰かのためにしてきたことの中で、気づかれなかったと感じているものがあるとしたら——それを、誰かがずっと見ていたとしたら。

その事実を、あなたはどう受け取りますか。

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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