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何もできない、という苦しみは、深いものです。祈るしかない、とわかっていても、それだけでは気持ちが収まらない夜があります。そんな場所に、聖書はいったい何を言うのでしょうか。
「ただ、御使いよりもしばらくの間低くされた方であるイエスのことが見えています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、またその原因でもある方としてふさわしいことであったのです。」
(ヘブル人への手紙2章9〜10節)
勝利ではなく、苦しみを通って
ゲームの主人公を思い浮かべてください。旅をして、レベルを上げて、仲間を集めて、最後に大きな敵を倒す。勝利によって人々を解放する。これが私たちの頭に浮かぶ「救い」のイメージです。
でも聖書に書かれているキリストの姿は、それとは違います。
10節にこうあります。「救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた」。
勝利でも成功でもなく——苦しみを通して。
この方は神のひとり子でありながら、御使いよりもさらに低いところに降りてきました。赤ん坊として生まれ、食べなければ空腹を感じ、働けば疲れ、限りある肉体を持って人々の間を歩みました。そして最後は、犯罪人にかけられる十字架の死を、自ら選んで向かっていきました。
本来なら、この方にはそれをしない力がありました。すべてを退け、すべてを裁き、自分の座に戻る力が。それでも選ばなかった。すべての人のために、値打ちのない者たちのためにさえ、ご自分の命を差し出した。
その死の故に、神はこの方に栄光と誉れの冠を与えました。人々に嘲られ、闇の中に捨て置かれるような死を遂げたこの方が、すべてのものを治める者として高く上げられた。
報われない愛を、引き受ける歩み
このことは、私たちの歩みにも関わってきます。
私たちの救いは、勝利と喜びだけで完成されるものではありません。神はキリストを「苦しみを通して全う」することで、多くの子たちを栄光に導きました。その道を、私たちも歩むように招かれています。
与えられたものを人のために差し出すこと。できれば避けたい苦しみを引き受けること。報われない愛をも、なお続けること。
これは自分を傷めつけることではありません。キリスト自身が選んで歩んだ道の形を、私たちも少しずつ生きていくということです。
たとえば、孫のために何もできないまま夜を過ごすこと。息子への心配を言葉にできないまま、ただ祈ること。そういう場所で、静かにそこにいること。
それは「何もしていない」ことではないかもしれません。報われない愛を引き受けている、ということかもしれない。キリストが選んだ歩みの形と、同じ輪郭を持っているかもしれない。
今は答えが出なくていい、とこの箇所は言っているように思います。アドベントのもう一つの意味——苦しみの中で耐え忍んだ歩みが、本当の意味で報われる日を待ち望むこと——は、今すぐすべてが解決しなくてもいいという、静かな許可です。
何もできない場所にいること。それは、キリストが選んで降りてきた場所と、どこか重なっているのかもしれません。
考えてみましょう
何もできないまま、ただそこにいた——あなたの人生のその場所は、本当に「何もしていなかった」場所だったのでしょうか。
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