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25年間、正しいことをしてきた。誠実に建ててきた。闇と光のことは、人に語れるくらい知っている。——それでも深夜、天井を見ながら問いが来る。「自分が握っている石を、置いたことがあるか」と。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持つのです。」
「光をもたらせる者」が、石を握っていた
ヨハネ1章は、こう始まります。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」
このお方が、すべてを作られた造り主です。「光あれ」と言い、無から有を生み出したお方。そのお方の命が、私たちの光なのだと聖書は言います。
大事なのは、この光が「もたらされた光」だということです。
スイッチを入れれば点く電灯でも、ふっと息を吹きかければ消えるろうそくでもない。私が手で持って操作できるものではありません。造り主ご自身が私の傍に来てくださった——それが光です。見つけるものでも、点けるものでも、維持するものでもない。来てくださるものです。
ところで、闇とは何でしょうか。「どうしてこうなったのかわからない。今どうなっているのかもわからない。これからどうすればいいのかも、まったくわからない」——その手探りの状態です。答えを探せるうちは、まだ山登りです。頂上が見えている。しかし闇の中では、頂上がどこにあるかもわからない。登り方もわからない。出口が見えない。
自力では抜け出せない、その状態です。
年長の指導者たちが、先に去っていった
イエスが「わたしは世の光だ」と言ったのは、具体的なある場面でした。
一人の女性が連れてこられます。姦淫の現場を押さえられた、と言われました。指導者たちは言います。「律法では石打ちの刑だ。あなたはどう裁くか。」
イエスはしばらく黙って、地面に字を書いていました。それからこう言います。「あなたがたの中で罪のない者から、この女性に石を投げるがいい。」
指導者たちは石を投げられませんでした。年長の者たちから順に、その場を去っていきます。
ここで聖書の細部を見てください。年長の者たちから先に去ったのです。
長く生きてきた者ほど、自分が何を握っていたかを知っていた。正義として持っていたはずのものが、いつの間にか自分を守るための石になっていた。それに気づいた者から、静かに置いていったのです。
「罪のない者が石を投げよ」——これは糾弾ではありません。問いかけです。あなたが握っているそれは、何のためか。誰かを正しく裁くためか。それとも、自分の中の何かから目をそらすためか。
光は「来るもの」だと知ったとき、石を置けた
正しくあり続けた者が、正しさの頂点で問われる場面があります。
年長の指導者たちは、「自分も同じだ」と気づいた瞬間に、石を置きました。そのとき初めて、イエスと女性が二人残された場所に自分が立てたかもしれない。「あなたを罪に定めない。行きなさい」と言われた言葉を、自分も受け取れた場所に。
光を自分で点けようとしてきた人間が、光はもたらされるものだと知るのは、石を置いた後かもしれません。何も見えない、どうすればいいかわからない、その正直な手放しの後に、お方が傍に来てくださる。
造り主が傍に来られた。だから闇は光に打ち勝てない。私が光を守るのではなく、光がこちらに向かって来ている。それが、ヨハネが語ることです。
あなたが今も手の中に持ち続けているものを、置いたことがあるか。
メッセージ全編はこちらの動画から。

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