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25年間、一つの場所で誠実に積み上げてきた。それは本物だ。でも、ある夜ふと気づくことがある。「自分は何のために、これをしてきたのか」と。その問いが、召しという言葉だけでは収まらなくなってくる夜が、ある。
「主があなたと共におられ、主があなたについて語られた通り、あなたがあなたの神、主の宮を立派に建て上げることができるように。」(歴代誌第一22章11節)
成し遂げた者が、初めて問われること
ダビデは成功した人間だった。
王国を統一し、戦に勝ち続け、富と名声を手に入れた。そして晩年、神のために神殿を建てようとした。金10万タラント、銀100万タラント——100年分とも200年分とも言われる財を積み上げた。資材を集め、設計図を書き、職人を手配した。「主のために」と言いながら、その準備の細かさと規模の大きさには、何か別のものが混じっていなかったか。
そこで神は言った。
「あなたは血を流しすぎた。だから、あなたが建てるのはふさわしくない。」
ダビデは止められた。神殿を建てることを、禁じられた。自分が最も「神のために」と思って取り組んでいたことを、「あなたではない」と言われた。
これは罰ではない。でも——喜びでもない。
建てることを許されなかったダビデは、その後どうしたか。
「やれなかった」が「手渡すもの」になった
彼は息子ソロモンを呼んだ。そして言った。「主が共におられる。だからあなたはこれを建て上げることができる。恐れるな、怖がるな、強くあれ」と。
自分がやれなかったことを、次の人に渡した。それは敗北ではなかった。ダビデが25年かけて積み上げてきたもの——「主のためという志」と「主が共におられるという信仰」——それをそのまま、ソロモンの心に置いていった。
ソロモンが受け取ったのは、金でも設計図でもなかった。「父ダビデは、神とともに歩んでそれをした。だから私も神とともに歩んでさせていただこう」という、その姿そのものだった。
「数」ではなく「心に残ったもの」
ジョンという男の話がある。元は戦闘機パイロットになるはずが、事故で夢を断たれた。その後、週90時間働き続け、家族を養い、経営者として成功した。ある日、落馬事故で全身の骨を砕き、命がけの手術を前にした夜、彼はベッドで考えた。
今週末が自分の葬儀になるかもしれない。子どもたちは、妻は、私のことを何と言うだろう。財産は残せる。でも——その心には、何も残していない。
一生懸命働いた。しかし家族のそばにいなかった。数字は積み上げた。しかし誰かの心に、何が残ったかは——わからない。
手術は成功した。そして彼は言い続けた。「歩みは、何を成し遂げたかで測られない。誰かの心に何を残したかで測られる」と。
これは遠い話ではない。25年間、一つの場所に立ち続けてきた人間にとって、一番鋭く刺さる問いだ。教会が大きくなった。地域に根を張った。行政とも向き合った。それは本物だ。でも——妻の心に、子どもたちの心に、あの会衆一人ひとりの心に、何が残ったか。その問いを、「召し」という言葉で迂回してきなかったか。
ダビデが建てようとしたものは、結局ソロモンが建てた。ダビデが残したのは建物ではなかった。それでも、何かが確かに渡された。
「あなたがやれなかったこと」の中に、実は「次の人に手渡すべきもの」が隠れているとしたら——今、その問いはどこに向かうか。
考えてみましょう
あなたがこれまで積み上げてきたものの中で、「数」として見えているものと、「誰かの心に残ったもの」とを、正直に並べてみるとき——何が見えてくるだろうか。
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