神の招きは、「来られる人だけどうぞ」という話ではありません。毎日、笑顔でいること。家のこと、仕事のこと、大切な人のこと。気づいたら、自分のための時間がどこかに消えていた——そんな日々が続いているなら、今日の話を読んでみてください。
聖書箇所(ルカの福音書14章17節、24節)
「さぁおいでください、もうすっかり用意が出来ました」
「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で私の食事を味わう者は一人もいないのです。」
行くつもりだった、でも行かなかった
ルカの福音書14章に、こんな場面があります。盛大な宴会が準備されました。料理も席も、すべてが整いました。ところが招かれた人たちは、口々に断り始めます。
畑を買ったから。牛を買ったから。結婚したから。
どれも、それなりの理由です。嘘をついているわけでも、悪意があるわけでもありません。ただ、「今日の自分に大事なこと」を選んだのです。
でも主人はそれを「来られなかった」とは受け取りませんでした。「行かないことを選んだ」と見ていました。
これは、誰かを責める話ではありません。
「行くつもりだったのに、行かなかった」という経験は、私たちの日常にも静かに積み重なっていきます。今日も後回しにした祈りの時間。押し込めたまま言葉にできなかった気持ち。「神の前に座ろう」と思いながら、気づけば一日が終わっていた夜。
それでも「まだ席がある」
断られた主人は、怒りながらも言います。「街に出て、貧しい人、体の不自由な人を連れてきなさい。」しもべは報告します。「大勢来ました。でも、まだ席があります。」すると主人は言います。「もっと人を呼んできなさい。この家がいっぱいになるように。」
「まだ席がある」。
この言葉が、ずっと気になります。
断られても、主人は席を埋め戻しませんでした。「あの人は来なかったから、もういい」とはなりませんでした。元から招かれていた人たちの席を空けたまま、「まだある」と言い続けた。
神の招きは、一度断ったから終わりではありません。忙しかったから、疲れていたから、後回しにしていたから——それでも、席はまだあるのです。
詩篇46篇が言うこと
詩篇46篇は、こんな言葉から始まります。
「神は我らの避け所、また力。苦しむ時そこにあった助け。」
「苦しむ時そこにあった」——過去形です。気づいたときにはもう、そこにいた。声をかける前から、席を整えて待っていた。
宴会の準備が全部整ってから「さぁ来てください」と呼びに来た主人のように、神はすでに用意を終えてあなたを待っています。
今夜、言葉にできなかったことがあるとしたら。押し込めたまま眠れない気持ちがあるとしたら。その席は、今夜もまだあります。
「まだ席がある」という言葉は、急かしていません。ただ、知らせています。あなたが来ることを、神は今日も待っている、と。
今日、心の中でそっと後回しにしてきたことがあるとしたら、それは何でしょうか。
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