正しく生きようとしているのに、なぜこんなに孤独なのだろう。そう感じる夜が、あなたにもあるかもしれません。知識は伝えている。努力もしている。それでも何かが足りない気がして、眠れないまま今日の自分を採点し始める。その疲れは、本物です。
恐れるな。私たちと共にいるものは、彼らと共にいるものよりも多いのだから。
主がその若い者の目を開かれたので、彼が見るとなんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
(列王記第二 6章16〜17節)
朝、街の外を見た若者のこと
朝起きたら、街が敵に囲まれていた。
エリシャの従者だった若者の話です。夜のうちに、大軍が街をぐるりと包囲していました。若者が気づいたのは、夜明けになってから。手の打ちようがない状況が、すでに完成していたのです。
若者はエリシャのところに駆け込みました。「どうしたらよいのでしょう。」この言葉は、方法を聞いているのではありません。「もうどうにもならない」という嘆きです。
敵の数が多すぎる。自分には力がない。時間もない。この三つが重なったとき、人は動けなくなります。正しいことをしていても、頑張っていても、関係ない。ただ圧倒されて、立ちすくむだけです。
あなたにも、似た夜があるかもしれません。受講生に何度伝えても変わらない。自分の言葉が届いているのかわからない。それなのに「もっとちゃんとしなければ」と、また自分に戻っていく。敵の数を数え続けるように、届かないことの数を数え続けている。
エリシャは「もっと頑張れ」とは言わなかった
エリシャが若者に言ったのは、「恐れるな」という一言でした。対策でも、励ましでも、責めでもありませんでした。
そして、こう祈りました。「どうぞ彼の目を開いて、見えるようにしてください。」
若者が見ていたのは、敵の多さだけでした。エリシャが願ったのは、それ以外のものが見えるようになることでした。
目が開かれたとき、若者が見たのは火の馬と戦車が山を覆い尽くしている光景でした。知らなかっただけで、最初からそこにあったものです。夜のうちに敵が街を囲んでいたのと同じように、その前からそこにあったのです。ただ、見えていなかっただけでした。
これは「気持ちを切り替えれば見えてくる」という話ではありません。若者が自分で気づいたのではなく、見せてもらったのです。自分の努力でも、正しい思考でもなく、目を開いてもらうことで初めて見えた。そこが大切な場面です。
知っていることと、見えることは違う
聖書にそう書いてある。神はともにいてくださる。頭ではわかっている。でもそれが、深夜の孤独には届かない。そういうことがあります。
若者も、エリシャから神の話を聞いていたはずです。でも朝、敵を見た瞬間に、それは消えました。知識と経験は、別のものです。
エリシャが求めたのは、若者が「知る」ことではありませんでした。「見える」ようになることでした。頭に入れることではなく、実際に見ること。その違いに、この話の重さがあります。
正しく生きようとすることは、尊いことです。でも、正しさを積み上げることと、神がともにいるという現実は、別のことかもしれません。あなたが疲れ果てているとき、管理できていないとき、答えを出せないとき。そういう夜にも、すでにそこにあるものがある。見えていないだけで。
今日の自分を採点し始める前に、そのことを一度だけ思い出せるとしたら——何か変わるでしょうか。
考えてみましょう
あなたが今見ているのは、何の数ですか。
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