25年間、誠実にやり続けてきた。それでも燃え尽きたように感じる朝がある。「これだけやったのだから、もう十分ではないか」——そう感じたことは、一度もないだろうか。
「主よ、もう十分です。私の命を奪ってください。私は先祖たちに勝っていませんから。」
——列王記第一19章より
大業の直後に、人は崩れる
エリヤは失敗したから倒れたのではない。
450人のバールの預言者を向こうに回した。たった一人で立って、真の神を示した。民はこぞって「主こそ神です」と言った。人生のピークとも言える大業を成し遂げた——その直後に、彼は荒野のエニシダの木の下に倒れ込んだ。
「もう十分です。私の命を取ってください。」
これは弱さから来た言葉ではない。やり切ったと思ったから出てきた言葉だ。「自分にできることはした。先祖たちには及ばないが、自分としてはここまでだ。もう十分だ」——そう言って、手を閉じた。
この言葉の中に、エリヤの二つの思い違いが見える。
一つは、「計画を完成させるのは自分だ」という思い込みだ。もう十分と言えるのは、自分が終わりを決められると思っているからだ。
もう一つは、「何をどれだけ成し遂げたか」が自分の価値だという思い込みだ。先祖たちに勝っていない。自分の達成は所詮この程度だ。だからもう十分——その評価は、実績と比較の物差しだけで自分を測っている。
神はそこに食べ物を置いた
エリヤが倒れた場所に、御使いが来た。
説教も弁明もなかった。ただ、焼いたパン一つと水の入った壺が置いてあった。「起きて食べなさい」——それだけだった。
エリヤを長年養ってきたのは、彼の成功でも努力でも、生きる意欲でもなかった。カラスに養われたこともあった。「これを食べたら死のう」と思っていた女性の家で養われたこともあった。いつも、神が何もないところから食べさせてきた。この時もそうだった。
倒れていい。食べて、飲んで、また横になっていい。
そしてもう一度、御使いは言いに来た。
「起きて食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」
「旅はまだ遠い」という言葉
「もう十分です」と言ったエリヤに、神は「そうだね、もう十分だ」とは言わなかった。
「旅はまだ遠いのだから」——あなたが閉じた手を、私はまだ開こうとしている。あなたの歩みはここで終わりではない。
神が見ているのは、何をどれだけ成し遂げたかではない。最後まで、託された歩みを歩みなさい——そう言っている。
エリヤはその食べ物に力を得て、40日40夜歩いた。神の山ホレブまで、300キロ近い道のりを歩いた。「もう終わりだ」と思っていた人間が、その後も歩き続けた。歩みはそこで終わりではなかった。
25年間やってきた。手応えがあったこともある。でも変わらなかったことも多い。「自分にできることはやり切った、もう十分ではないか」という声が、どこかから聞こえてくる夜がある。
その夜に、エニシダの木の下で眠ったエリヤに神が言った言葉が静かに届いてくる。
「旅はまだ遠い。」
あなたが閉じたと思ったその先に、まだ道がある。
問い
自分が「もう十分だ」と思うとき、それは本当に「やり切った」からか——それとも、自分で終わりを決めようとしているだけではないか。
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