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正しく生きようとすればするほど、疲れと孤独だけが積み上がっていく。
そんな経験はありますか。
あるいは、正しい側にいると思っていたのに、ひどく消耗していた。そういうことかもしれません。
その疲れそのものが、あなたが本気だった証拠です。
ですからすべて他人を裁く人よ、あなたに弁解の余地はありません。何故なら裁くことにおいて自分自身をも定めています。あなたがそれと同じことを行っているからです。
ローマ人への手紙2章1節それとも神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
ローマ人への手紙2章4節
今日の聖書から
正しい側にいるはずが、同じ土俵にいた
パウロがローマの人々に宛てた手紙には、こんな言葉があります。
「他人を裁くあなたは、自分自身をも定めている」と。
裁くとは、正しい・正しくないという線を引いて、人をどちらかに分けることです。
ローマの人々も、自分たちは正しい側にいると確信していました。
律法を持ち、神に熱心で、知識もある。
だから裁く側に立てると思っていたのです。
けれどもパウロは言います。
「その正しさで相手といがみ合っているあなたは、裁かれる土俵に立っている」と。
これは、正しくあろうとした人への言葉です。
怠けていた人へではなく、熱心であった人へ向けられた言葉です。
正しさそのものが、神の慈しみからいちばん遠ざける道になっていた。
それが、この言葉の静かな問いかけです。
その問いの先に、パウロはこんなことを語っています。
待たずに、手を伸ばしてくる愛
パウロが「軽んじているのですか」と問うた神の慈しみとは、どんなものでしょう。
それは、良い人だから受け入れる、という待ちの姿勢ではありません。
原語の「慈しみ」という言葉には、心の底から沸き起こる思いで相手をいとおしく思い、ほっておくことができないという意味があります。
遠ざかっていくものへ、自ら手を伸ばして、招き戻す愛の動きです。
「忍耐」「寛容」という言葉もそこに並んでいます。
何度繰り返しても、いつまでも、絶えず。
そういう愛が、あなたに向けられているのだとパウロは言っています。
正しさによって自分を支えようとしてきたあなたへ、神はすでに手を伸ばしてきています。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
「裁く人が、実は同じ土俵にいる」——この言葉、読んだとき少し怖かったです。
正しくあろうとすればするほど、神の慈しみから遠ざかってしまうことがあるんですね。
でも同時に、その慈しみは「待っている」のではなく「手を伸ばしてくる」ものだと知って、少しだけ息ができた気がしました。
手を伸ばしてくる愛が自分に向けられているなら、正しくあり続けなくても、もう土俵を降りていいんだと思えた気がします。
《参考礼拝メッセージ》
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。
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