気づかないうちに、どこか遠くへ流されていく。そんな感覚が、ある日ふと訪れることはないでしょうか。役割が一つひとつ手を離れ、「私はいったいどこへ向かっているのか」と、静かな夜に問い続けてしまうとき——。
「主を求めて生きよ」(アモス書5章)
錨のない船は、知らぬ間に流される
人生には、錨が必要だとアモス書は語ります。
錨を下ろしていない船を想像してみてください。海に浮かんでいるだけなら、穏やかな日は何も問題ないように見えます。でも風が吹けばそちらへ向かい、波が来ればそちらへ押される。1時間、2時間たったとき、船はもとの場所にいません。気づいたときには、「なぜここまで来てしまったのか」もわからなくなっている。
アモス書に登場するイスラエルの人々も、そういう状態でした。
彼らの暮らしは豊かでした。食べ物には困らない。国には平和がある。礼拝も続けている。「私たちは正しくやっている」と思っていた。でも神の目には、何か大切なものが見えていませんでした。自分たちの豊かさの陰で、小さな者たちが苦しんでいる。その現実に、目が向いていなかった。
神は怒るのではなく、嘆きます。「あなたがたは帰って来なかった」と。何度も、繰り返し、嘆く。
「何もできない」という場所に立っていた人たちのこと
ここで少し立ち止まりたいのは、アモス書が告発している「小さな者たち」のことです。
豊かな者たちが「私たちは善を行っている」と礼拝を続けているあいだ、彼らの陰に押しやられていた人々がいました。裁きの場である「門」から遠ざけられ、声を上げることも、状況を変えることもできないまま、そこにいた人たちです。
彼らは何かを成し遂げたわけではありません。歴史を動かしたわけでも、問題を解決したわけでもない。ただ、その場所にいた。
それでも神の言葉は、その人たちに向けられていました。「万軍の神、主はもしや残りのものを哀れまれるかもしれない」と。「哀れむ」という言葉は、見下すことではなく、その存在を深く気にかけるということです。何もできないまま周縁にいた人を、神は視野の外に置いていなかった。
これは「苦しんでいればいつか報われる」という話ではありません。何かを果たさなければ意味がないわけでも、ないのだということです。手が届かない場所で誰かが苦しんでいて、自分には何もできない——その状態が、聖書の中にも確かに書かれている。そしてそこに神の目が向いていた、という事実です。
「主を求めて生きよ」とは、何を意味するのか
では「主を求めて生きる」とは、どういうことでしょう。
毎日祈りの言葉を口にすること、でしょうか。礼拝に欠かさず出席すること、でしょうか。アモス書はそれだけでは足りない、と言います。
「主を求めて生きよ」という言葉の核心は、もっと静かなところにあります。今自分に与えられている歩み——不本意なことも、思い通りにならないことも含めて——その中に神が備えた道があると自覚して、そこに自分を合わせていくことです。
なぜ自分はこういう場所に立っているのか、と問いたくなる夜があるでしょう。あの頃の自分に戻れたら、と感じる夜もあるでしょう。それでも今ここに置かれている歩みを、受け取ること。その歩みの中にある目当てを見失わずに、自分の道を選び取っていくこと。
それが、錨を下ろすということです。
満ち足りているときほど、流されやすい
イスラエルの人々への警告は、「苦しんでいる人」へのものではありませんでした。むしろ「満ち足りていて気づかない人」への言葉でした。
楽しいこと、喜ばしいことが続いているとき、人は問いを立てなくなります。「これでいい」と感じているとき、錨をどこに下ろしているかを確かめなくなります。
でも夜、静かになったとき——「これでいいのだろうか」という問いが戻ってくるなら、それはもしかすると、神が「帰って来なかったか」と語りかけている声かもしれません。攻め立てているのではなく、嘆きながら、呼びかけている声として。
今日も楽しく過ごした。それは本物の喜びです。でもその喜びの奥に「何かが引っかかる」という感覚が残るなら、その感覚を無視しなくていい。何もできないまま、ただそこにいる——そのことに意味があるかどうかを問う声が、深夜にふと戻ってくるなら、その問いを手放さなくていい。アモス書の神は、その問いを知っています。
その問いこそが、錨を確かめるための入り口です。
あなたが「漂わずにいる」ために、今、心の底に下ろしている錨は何でしょうか。
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