正しくあろうとすればするほど、なぜか孤独になっていく——そんな感覚を覚えたことはありますか。
それとも、ただ疲れているだけだと思って、やり過ごしてきたかもしれません。
私は良い牧者です。私は私のものを知っています。また私のものは私を知っています。
(ヨハネの福音書10章14節)
導かれるから歩める。その順番を、ひっくり返さなくていい
認められるために、もっとちゃんとしなければ。
そう思って動くとき、最初のうちはうまくいく気がします。
でも、ある日気づきます。
どれだけ正しくしても、息が楽にならないことに。
それはもしかすると、「正しさが先で、導きが後」だと思い込んでいるせいかもしれません。
「一番の私」ではなく、否定した私に来た
ペテロという人がいました。
いつも一番に手を上げ、「私が行きます」と声を張った人です。
熱くて、真っ直ぐで、誰よりも前に出ようとした人でした。
でも彼は、肝心な夜に三度、イエスを知らないと言いました。
誰よりも強くあろうとした人が、誰よりも情けない言葉を口にした夜です。
そのペテロに、イエスは問いかけます。
「あなたは私を愛するか」と、三度。
そして言います。
「わたしの羊を飼いなさい」と。
招かれたのは、一番だったときのペテロではありませんでした。
否定した後の、醜く、愚かで、情けなかった彼でした。
良い牧者が先に動いた——そのことの意味は、ここにあります。
存在を認め、案じ、可能性を信じる——その三つが「知る」
「私のものを知っています」という言葉には、三つの層があります。
一つ目は、存在を認知することです。
あなたがここにいる、そのことをちゃんと見ている、ということです。
二つ目は、状況を案じることです。
何が必要か、今どんな中にいるか、心を向けて気にかけているということです。
三つ目は、これからの価値と可能性を信じることです。
今どんな状態であろうと、この先の成長と意味を、すでに知っているということです。
イエスはその三つすべてで、否定した後のペテロを知っていました。
「気に入られてから」ではなく、「否定した後のままで」、知っていたのです。
良い牧者が先に動きます。
正しくなってから導かれるのではなく、導かれるから歩めます。
その順番が逆転するとき、「否定した私」にさえ向けられた眼差しが、あなたにも向いていることに、気づくかもしれません。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
ペテロが一番よく手を上げていた人だったというのを聞いて、僕は少しドキッとしました。
「認められるために正しくあろうとした」って、すごくわかる気がするんです。
でも招かれたのが、その「一番の自分」じゃなかった——そこに、なんか深いものがあるなと思います。
良い牧者が先に動く、その順番を間違えなくていいんだ、という言葉が今日の僕には刺さりました。
今日の問い:
今日一日を振り返るとき、あなたは「ちゃんとできたか」を確かめていますか。
それとも、すでに知られているという感覚の中に、少し立ち止まれているでしょうか。
《参考礼拝メッセージ》
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