ちゃんとやれているのかわからないまま、それでも今日も動き続けている。
動けていること自体が、すでに誰かに向かっている——そのことに、気づいていないだけかもしれません。
その動き続ける夜の言葉が、どこかに届いているのかどうか——エステル記という2500年前のテキストが、静かにその問いを投げてきます。
エステル記3章15節「命令が下されると、王とハマンは飲み食いした。しかし都スサは混乱した。」
力は、誰かのために使うためにある
街が嘆いている夜に、酒を飲んでいた
ペルシャ帝国のナンバー2、ハマンという人物が王の印章を手に入れます。
そして命令を全国に発布しました。
ユダヤ人を男も女も、老人も子どもも、一人残らず滅ぼせ、と。
命令が届いたその夜、街で何が起きていたか。
人々は嘆き、声を失って立ち尽くしていました。
そのとき、ハマンと王は何をしていたか。
酒を酌み交わしていました。
街の人々はその夜、どんな状態にいたのか。
声を失った、という言葉
「街は混乱した」と訳されているこの箇所の原語、ナーボーフという言葉は、単なる混乱ではありません。
声が出なくなるほど打ちのめされた状態、呆然と立ち尽くす状態を指す言葉です。
これが、力を持つ者に踏みにじられた側の実態です。
ナーボーフの夜の人々の内側は、こういう状態だったかもしれません。
誰にも話せない。
泣き言にできる言葉も出てこない。
「お願いします」という言葉が出るけれど、誰に向けているのかわからない。
その感覚と、同じ場所にある言葉です。
その言葉の出どころを、聖書はナーボーフと呼んでいたのかもしれません。
ナーボーフの夜に口から出た「お願いします」は、2500年前にあの街の人々が声を失いながら抱えていたものと、同じ場所から来ています。
どこかに向かっている言葉は、どこかに届いています。
声を失っても、届いている。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
ハマンが酒を飲んでいる夜、街の人々が声を失っていたという場面、正直ちょっと怖くなりました。
力ある人が笑っている場所と、声が出なくなる場所が、同じ夜に存在していたんですよね。
でも、ナーボーフという言葉が聖書に残されているということは——声を失った人たちのことを、誰かがちゃんと見ていたということかもしれないな、と思いました。
向ける先もわからないまま動き続けている夜も、その力はどこかに向かっていたのかもしれない——と、ナーボーフという言葉を読みながら思いました。
《参考礼拝メッセージ》
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