毎日、誰かのために何かをし続けている。
夫の体調を確認して、子どもたちに笑顔を向けて、また家に帰る。
「愛しているから」と自分に言い聞かせながら、それなのになぜこんなに疲れるのか——そう感じたことはないでしょうか。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
——ペテロの手紙第一 4章8〜9節
「愛するから疲れる」は、本物の愛の証拠
聖書は正直に言います。
愛することは「七面倒くさいこと」だと。
「互いに愛し合いなさい」——これは一見シンプルに聞こえます。
でも実際にすることの、何と複雑で手がかかることか。
相手が求めるものを何でも与えればいいわけではありません。
相手が担うべきことがあり、自分にできる範囲があります。
どこまでが愛情で、どこからが甘やかしなのかを見極めなければならない。
手探りで、葛藤して、後悔しながら差し出していくものが愛なのだと、聖書は言います。
だから疲れるのは当然です。
疲れるのは、本物の愛だからです。
「内側の人柄」が外側に出てくる
聖書のある箇所にこんな言葉があります。
「外側の飾りではなく、心の内の人柄があなたを飾るように」と。
毎朝、鏡の前で笑顔を確認してから出かける。
子どもたちの前では、先生として明るくいる。
帰宅したら、夫の「大丈夫」という言葉を確認してから、ほっとする。
その笑顔が本物かどうか、自分でもわからなくなる夜があるかもしれません。
「内側と外側がちぐはぐだ」と感じることがあるかもしれません。
でも聖書が語るのは、「外側をもっと整えなさい」ではありません。
内側から始まるのだ、と言っています。
外側の状況がよくなれば内側も変わる——そうは語られていません。
最初に変わっていくのはいつも内側だと言うのです。
苦しみには、終わりがある
初代のクリスチャンたちは迫害の中にいました。
信じることで冷たくあしらわれ、なぜ自分だけこんな目に遭うのかと問い続けていました。
そんな彼らにペテロは書きました。
「万物の終わりが近づきました」と。
終わりとは、解放のことです。
今ある苦しみ、不安、出口の見えない日々——それが終わる。
そしてもう一つ。
一つのことが終わる時、そこから新しい現実が始まります。
終わりは、新しい始まりを意味しています。
今がずっと続くわけではない。
この苦しみにも、この疲れにも、報われる終わりのときがある。
聖書はその言葉を、手を差し伸べるように届けます。
あなたが毎日差し出している愛は、空しいものではありません。
面倒くさくて、手がかかって、後悔もある——その全部が、本物の愛のかたちです。
そして神は、その「七面倒くさい愛」をご覧になっておられます。
考えてみましょう
今日、誰かのために差し出したこと——それは内側から出てきたものでしたか。
それとも、外側を保つために貼り付けたものでしたか。
答えは出なくていいです。
ただ、少しだけ立ち止まって、自分の内側に目を向けてみてください。
参考礼拝メッセージ
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