Podcast: Download (Duration: 35:42 — 32.7MB)
正しい知識を持って、誠実に向き合って、それでも届かない。
そんな日々の疲れは、本物です。
でも、その疲れの根っこには、もしかしたら別の問題があるかもしれません。
それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
ペテロの手紙第一 4章10節
「仕える」が重くなるとき
誰かのために動くとき、こんな計算が頭をよぎることはないでしょうか。
「これだけやったのに、変わらない。」
「また同じ質問が来た。どこまで答えればいいんだろう。」
「私がここまでするべきなのか。」
これは、意地悪な考えではありません。
人間なら誰でも、出したものと返ってくるものを、どこかで数えています。
聖書もそれを知っています。
ペテロは「愛し合いなさい」と書きながら、こう続けます。
「つぶやかないで」と。
つぶやきが出る、ということを、ペテロは最初から知っていたのです。
「そんな気持ちになってはいけない」ではなく、それが出てくる現実を織り込んだ上で書いている。
愛することと、甘やかすことは違います。
相手の本来の責任まで全部引き受けてしまうのは、愛ではありません。
どこまでが愛でどこからが甘やかしなのか。
その見極めは難しく、見誤ることもあります。
「あのとき、ああ言えばよかった」と深夜に振り返るような、あのしんどさ。
ペテロは、そういう葛藤ごと引き受けることが愛だ、と言っているように聞こえます。
「管理者」という言葉が、何かを変える
疲れの根っこは、どこにあるでしょう。
仕える力を「自分が持っているもの」だと思っていると、出した分だけ減っていく感覚になります。
減れば補充しなければならない。
補充が追いつかなければ、焦りになる。
でも、ペテロはここで言い方を変えます。
「賜物を受けている」と。
あなたが持っている知識も、言葉も、誰かとつながる力も、最初から自分が生み出したものではない。
受け取ったものを、預かっているだけだ、と。
「管理者」という言葉があります。
管理者は、自分のお金を使っているのではありません。
持ち主から預かったものを、持ち主の代わりに動かしている人です。
だとすれば、計算の構造が変わります。
「私がこれだけ出した。相手からこれだけしか返ってこない」ではなく、「神から預かったものを、ここで使った」になる。
出所が変わると、枯れ方が変わります。
正しく仕えようとするほど疲れていくとしたら、それはもしかすると、与えることばかりに目が向いて、受け取ることを忘れているからかもしれません。
仕える前に、受け取っている。
その順番を取り戻すことが、疲れの処方箋になるかもしれません。
考えてみましょう
あなたが今持っている力や言葉や関係は、「自分で作り上げたもの」ですか。
それとも、どこかから「受け取ったもの」でしょうか。
参考礼拝メッセージ
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。

コメント