Podcast: Download (Duration: 31:25 — 31.3MB)
長い間、戦い続けてきた。証明し続けてきた。それなのに、どこかで「これで十分か」という問いが消えない——そんな疲れが、今のあなたの中にあるとしたら。
正しくなってから来い、と言われたら、あなたはいつ行けばいいのだろうか。
神へのいけにえは砕かれた魂。砕かれた悔いた心——神よ、あなたはそれを蔑まれません
(詩篇51:17)
比較で生きるとき、私たちは何をしているのか
二人の人が、同じ場所に祈りに来た。
一人は宗教的なエリートだった。律法を隅から隅まで守り、週に2回の断食を欠かさず、収入の10分の1をきちんと献げていた。文句のつけようがない歩みだ。
その人が神に向かってこう祈った。「神よ、私はあの人たちとは違います。奪う者でも、不正な者でも、姦淫する者でもない。特にあの取税人のようではないことを感謝します。」
感謝の祈りのはずなのに、その中心にあったのは比較だった。「あの人よりも」「こちら側に」——そうやって線を引き、自分がその線のこちら側にいることで、受け入れられようとしていた。
もう一人は、後ろの方にいた。取税人——同じユダヤ人から税金を巻き上げるローマの手先として、誰もが後ろ指を指す存在。宮の奥に目を向けることもできず、自分の胸を叩きながら、こう言っただけだった。「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」
言葉は少ない。誇れるものは何もない。だがそこにあったのは、比較ではなく自覚だった。私は何者なのか。神からどれほど隔たっているのか。それを、比べることなく、ただそのままに知っていた。
イエスはこう言った。義と認められて家に帰ったのは、取税人の方だ、と。
砕かれた心は、蔑まれない
ダビデのことを思う。
イスラエル最高の王と呼ばれた人間が、ある女性を欲しいと思った。彼女には夫がいた。ダビデはその夫を戦場に送り、死なせた。そうやって彼女を自分のものにした。
取り返しのつかない過ちだ。言い訳のしようがない。王としての威信も、神の人としての誇りも、泥の中に沈んだ。
そのダビデが書いた言葉が、詩篇51篇にある。「砕かれた悔いた心——神よ、あなたはそれを蔑まれません。」
本来、神の前に持っていくいけにえは完全なものだった。傷のない、汚れのない、選び抜かれた最善のもの。でもダビデが持ってきたのは、泥だらけで、砕かれて、言い訳のきかない自分の心だった。
神はそれを、蔑まなかった。
「汚れている、ふさわしくない、近づくな」とは言わなかった。砕かれたままのものを、退けなかった。
これは「罪を犯してもいい」という話ではない。「整ってから来い」という条件が、そもそもなかった、という話だ。
54歳になるまでに、何度も証明してきた。レイオフのたびに、また一から。差別に気づくたびに、見えない壁を前に。正しい立ち位置がどこかを探しながら、ずっと。そのたびに心のどこかで「これで十分か」を問い続けてきた。
でも、その問いに答えを出す前に——砕かれた心のまま、そこに立ってよかったとしたら。
比較でも、合格ラインでもなく。「こんな私を」と、それだけを持っていく場所が、あるとしたら。
考えてみましょう
あなたが今持っている「砕かれたもの」——整ってから、言語化できてから、もう少し強くなってからと、ずっと棚に上げてきたそれを、誰かの前にそのまま差し出したとしたら、何が起きるだろうか。
参考礼拝メッセージ
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

コメント