「もう十分か」を問い続けた先で、砕かれた心のまま立てる場所がある

「もう十分か」を問い続けた先で、砕かれた心のまま立てる場所がある

長い間、戦い続けてきた。証明し続けてきた。それなのに、どこかで「これで十分か」という問いが消えない——そんな疲れが、今のあなたの中にあるとしたら。

正しくなってから来い、と言われたら、あなたはいつ行けばいいのだろうか。

神へのいけにえは砕かれた魂。砕かれた悔いた心——神よ、あなたはそれを蔑まれません
(詩篇51:17)

比較で生きるとき、私たちは何をしているのか

二人の人が、同じ場所に祈りに来た。

一人は宗教的なエリートだった。律法を隅から隅まで守り、週に2回の断食を欠かさず、収入の10分の1をきちんと献げていた。文句のつけようがない歩みだ。

その人が神に向かってこう祈った。「神よ、私はあの人たちとは違います。奪う者でも、不正な者でも、姦淫する者でもない。特にあの取税人のようではないことを感謝します。」

感謝の祈りのはずなのに、その中心にあったのは比較だった。「あの人よりも」「こちら側に」——そうやって線を引き、自分がその線のこちら側にいることで、受け入れられようとしていた。

もう一人は、後ろの方にいた。取税人——同じユダヤ人から税金を巻き上げるローマの手先として、誰もが後ろ指を指す存在。宮の奥に目を向けることもできず、自分の胸を叩きながら、こう言っただけだった。「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」

言葉は少ない。誇れるものは何もない。だがそこにあったのは、比較ではなく自覚だった。私は何者なのか。神からどれほど隔たっているのか。それを、比べることなく、ただそのままに知っていた。

イエスはこう言った。義と認められて家に帰ったのは、取税人の方だ、と。

砕かれた心は、蔑まれない

ダビデのことを思う。

イスラエル最高の王と呼ばれた人間が、ある女性を欲しいと思った。彼女には夫がいた。ダビデはその夫を戦場に送り、死なせた。そうやって彼女を自分のものにした。

取り返しのつかない過ちだ。言い訳のしようがない。王としての威信も、神の人としての誇りも、泥の中に沈んだ。

そのダビデが書いた言葉が、詩篇51篇にある。「砕かれた悔いた心——神よ、あなたはそれを蔑まれません。」

本来、神の前に持っていくいけにえは完全なものだった。傷のない、汚れのない、選び抜かれた最善のもの。でもダビデが持ってきたのは、泥だらけで、砕かれて、言い訳のきかない自分の心だった。

神はそれを、蔑まなかった。

「汚れている、ふさわしくない、近づくな」とは言わなかった。砕かれたままのものを、退けなかった。

これは「罪を犯してもいい」という話ではない。「整ってから来い」という条件が、そもそもなかった、という話だ。

54歳になるまでに、何度も証明してきた。レイオフのたびに、また一から。差別に気づくたびに、見えない壁を前に。正しい立ち位置がどこかを探しながら、ずっと。そのたびに心のどこかで「これで十分か」を問い続けてきた。

でも、その問いに答えを出す前に——砕かれた心のまま、そこに立ってよかったとしたら。

比較でも、合格ラインでもなく。「こんな私を」と、それだけを持っていく場所が、あるとしたら。

目次

考えてみましょう

あなたが今持っている「砕かれたもの」——整ってから、言語化できてから、もう少し強くなってからと、ずっと棚に上げてきたそれを、誰かの前にそのまま差し出したとしたら、何が起きるだろうか。

参考礼拝メッセージ

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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