どうも、早起き牧師の中澤信幸です。
2017年3月23日木曜日、第39回目の放送です。
前回、前々回と同じ聖書のことばから、お話します。
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2017年3月23日木曜日、第39回目の放送、お相手は中澤信幸です。
よい行いをするために造られた
聖書の言葉ですね。「私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです。」エペソ人への手紙に書かれている言葉です。この前、その前は、神、神の作品ということをお伝えしてきました。で、今日はですね。何のために作られたか、という部分を見たいと思うんです。
ここには「神の作品であって、良い行いをするために造られた」のだと書いてあります。そこに目的が込められている。作品として造られた目的が込められてる、ということですね。良い行いをするために、っていうのが、その目的だというんです。
よい行いとは何か?
良い行いというのは、3つぐらいのことで考えられると思います。
ひとつめは、自分のことについてです。自分の歩みが神様に造られたにふさわしい、神様の似姿として造られたにふさわしい、そういう良いものである。心の中に平安や喜びがあり、また自分自身の歩みが生産的である。そういう自分の歩みが、良いものであるということ。これがまず、第一の良い行いをするために、ということ。
ふたつめは、自分の歩みが、人の助け手であることですね。神様が人を造ったときに、お互いに隣り合う良き助け手となるように造った、と書かれています。人って、基本的に人を助ける存在として造られている。そういうことを考えてほしいと思うんです。自分の歩みが人の助けになる、そのために作られたんだ、っていうことですね。
みっつめです。自分の歩みが社会や世界に良い影響を与える。仕事や役割、立場そういったものを通して、この社会、世界をよいものとして作り変えていく。そういう目的を持って私たちが作られてる、っていうことなんですね。
造られた方の願い、思い、意図
で、この「良い行いをするために作られた」という言葉です。ここに造った方、神の願いとか、その助けとか、そういったものが込められています。私たちは導かれてる、ということでもあるんですよね。
良い行いをするというとね、なんか聖人君子になるような、あるいは道徳の授業で習うような、これをしなさい、あれをしないで、という、なんか窮屈な感じがしたり。それでは、社会で生きていけないよ、みたいなことがあると思うんですけれど。
良い行いをするっていうのが、私たちの本来の造られた目的であって、そこに私たちの本来の幸せというか、心の満たしというか、そういうものがあるんだって。また、そこに神の助けがあるんだって。ぜひ心のどこかに覚えておいて欲しいなと思うんです。
そういうことが問われる場面って出てくるんですね。このとき私はどっちを選べばいいんだろうか。うーんと悩んだときに、私は本来は良いことを選ぶために作品として作られたんだよなあ、と。心のどこかで、きちんと受け止めることができたら、けっこう私たちの歩みは違うものになってきますよね。ぜひね、このことを知っておいて欲しいなと思って、今日お話しました。
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