「遠く離れて立っていた」——それも、関わりの一つの形だった

祈りながら見守ることしかできない。そう感じる場面が、あなたにもあるのではないでしょうか。踏み込みたいのに踏み込めない。何かしてあげたいのに、手が届かない。そのもどかしさを抱えながら、今日も静かにそこに立っている。

聖書箇所

神よ、私を救い出してください。主よ、急いで私を助けてください。

私は悩むもの、貧しい者。神よ、私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ、遅れないでください。

(詩編70編)

倒れた、大バビロンが倒れた。

彼女を裁く神である主は力の強い方だからです。

(ヨハネの黙示録18章)

目次

「遠く離れて立っていた」人たちのこと

黙示録18章には、大バビロンが滅んでいく場面があります。

そこに三つの人たちが登場します。王たち、商人たち、海の者たち。みんな、バビロンの繁栄を支え、バビロンから富を得ていた人たちです。

彼らはバビロンが燃えていくのを見て、こう描かれます。「遠く離れて立っていた」と。

泣き悲しみながら、でも近くには行けない。手を出すこともできない。ただ遠くから、煙が上るのを見ている。

一見すると、それは無力な姿です。何もできない人たちのように見えます。

でも聖書はその姿を、責めません。

「離れて立つ」ことが、命を守った

バビロンが滅びていくとき、神は「我が民よ、この女から離れなさい」と呼びかけます。その裁きに巻き込まれないために、一歩引いて立つように、と。

王たちも商人たちも、つい先ほどまでそのどまんなかにいた人たちです。どっぷり浸かっていた人たちです。でも、その裁きの前に離れた。遠くから立っていた。

その「遠く離れて立っていた」という姿が、実は神が求めておられた位置だったのです。

近づきすぎないこと、巻き込まれないこと、でもそこから目を離さないこと。それは逃げではなく、関わりの一つの形だったのです。

手が届かない場所にいる人を、祈りながら見ている

子や孫のことで、どうにもできないと感じるとき。

職場の誰かの苦しさが見えていても、踏み込めないとき。

そういうとき、私たちはつい「何もしていない自分」を責めてしまいます。もっと何か言えたはずだ、もっと動けたはずだ、と。

でも、黙示録の「遠く離れて立っていた」人たちを思うと、少し違って見えてきます。

離れたところから、でも目を離さずにいる。祈りながら、その人の行く先を見守り続けている。それは「何もしていない」のではなく、すでに関わっている姿なのかもしれません。

そして、この大バビロンが「一日のうちに」「一瞬のうちに」倒れたように、神は確かに動かれます。何十年も誇り続けた悪が、一瞬で滅びる。あなたが見えないところで、神は確かに働いておられます。

あなたの祈りは、何かを変えているかもしれません。それが見えないとしても、あなたが遠くから立って見ていることは、今日も必要とされています。

考えてみましょう

あなたが「遠く離れて立っている」と感じているとき、それは本当に「何もしていない」ことなのでしょうか。それとも、その場所に立ち続けることそのものが、すでに一つの関わりになっているのでしょうか。

参考礼拝メッセージ

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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