毎日、笑顔で立ち続けている。それだけで、どれほどのことか。疲れていても、誰かを支えながら、また明日を始めようとしているあなたへ。「本当の願いを、神の前に持っていっていいのだろうか」と感じたことはありますか。
しかし愛する人々よ、あなた方は自分の持っているもっとも清い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠の命に至らせる私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。
(ユダの手紙20〜21節)
あなたが立っているのは、自分の頑張りの上ではない
信仰の歩みは、「与えられた信仰の上に築き上げられていく」とユダの手紙は言います。
自分の意志力の上ではない。感情をうまくコントロールできているかどうかの上でもない。すでに与えられているものの上に、あなたは立っている。
これは小さなことではありません。毎朝、鏡の前で「今日も笑顔で」と確認して出かけ、帰り道にスマホを確認し、玄関を開ける前に表情を整える。そういう毎日を送っている人にとって、「あなたはすでに与えられた土台の上にいる」という言葉は、深いところまで届くはずです。
あなたが今日ここにいることは、あなたが頑張ったからではない。それ以前に、すでに置かれている土台がある。
ゲッセマネで祈ったイエスの、本音の言葉
十字架の前夜、イエスはゲッセマネの園で祈りました。
「できるならば、この杯を取り除いてください。」
飾りのない言葉です。苦しみを避けたい、という本音の言葉です。
しかしイエスは、その願いを持ったまま、神に委ねていきました。「しかし、わたしの願いどおりではなく、みこころのままに。」どちらかを消したわけではない。本音の願いを持ちながら、同時に、神の手に差し出していった。
そして十字架へと進みます。あらゆる意味で、暗い道でした。しかしイエスはその先を見ていました。これが死で終わらないことを、知っていました。だから進めた。今が見えないときも、その先にある神の手を見ながら、一歩を踏み出していた。
「この状況が変わってほしい」と思うことは、信仰の弱さではありません。イエス自身がそう祈っているからです。本音の願いを持ちながら、それでも神に委ねていくこと——それがここで語られている「待ち望む」の姿です。
義務として「待ちなさい」と言われているのではありません。イエスが先にその道を歩んでくれたから、あなたも歩けると言われているのです。
検査結果を待つ夜も、先が見えない朝も、誰にも言えない疲れを抱えたまま眠りにつく夜も——神の愛の中に、あなたは保たれています。その愛は、あなたが笑顔でいる日だけのものではない。言葉にならない願いを抱えている今夜も、変わらずそこにある。
「キリストの憐れみを待ち望む」とは、完璧な信仰を持って待つことではありません。本音の疲れと本音の願いを神の前に持ちながら、それでも歩き続けること。その歩みを、神は知っている。
考えてみましょう
誰にも言えずにいる正直な願いを、もし今夜神に向けて言葉にするとしたら、あなたはどんな言葉を差し出しますか。
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