何もできないまま、ただ祈るしかない夜がある。そんな夜に、「祈りで本当に何かが変わるのか」という問いが浮かんでくる。あなたは今、どこに立っているだろうか。
神よ、我が霊を御手にゆだねます
十字架の上で、イエスは何を見ていたか
「何もできない」という言葉は、力が弱いことを指しているように聞こえる。でも、ときどきそれは逆だ。
できることをすべてやった後に残る、その場所のことを言っている。
イエスが十字架にかかったとき、状況だけを見れば、それは完全な敗北だった。神に見捨てられた者がかかる木。処刑される者の最後。弟子たちは逃げた。群衆は嘲笑った。どこにも救いの手はなかった。
それでもイエスは、最後にこう言って息を引き取った。
「神よ、我が霊を御手にゆだねます。」
あきらめではない。絶望でもない。
この言葉の前夜、ゲッセマネの園でイエスは地面に伏して祈った。「この苦しみの盃を取り除いてください」と、繰り返し神に願った。自分の思いを、正直にぶつけた。それでも最後に言ったのは、「私の願いではなく、あなたの御心のままに」という言葉だった。
願いを持ちながら、それでも神の手に自分を委ねる。これは弱さではない。自分の思いと神の思いの間で、ほんとうに揺れた人の言葉だ。
「御手にゆだねます」という言葉の重さ
孫が難病を抱えている。息子が苦しんでいる。直接手を差し伸べることができない。そんな夜に「祈るしかない」という言葉は、ときに慰めにならない。
むしろ、「祈るしかない」が答えだとは、どうしても思えない、という感覚のほうが正直かもしれない。
でも、考えてみてほしい。
イエスが十字架で「御手にゆだねます」と言ったとき、その場に残っていた人たちの中に、何もできなかった人たちがいた。逃げることもできず、助けることもできず、ただそこに立っていた人たちが。
彼らは無力だったのか。そうとも言える。でも彼らはそこにいた。立ち去らなかった。それだけのことのように見えるが、それがすべてだったかもしれない。
イエスが「御手にゆだねます」と言えたのは、その歩みが最初から神の手の中にあることを、どこかで知っていたからだ。結果を見通していたからではない。今ここで何も変えられないように見えても、この歩みは神の手の中にある、という信頼があったから。
その信頼は、状況を変えなかった。苦しみも、死も、消えなかった。でもイエスの歩みは、そこで終わらなかった。
あなたが今、何もできないと感じながらも、誰かのことを思い続けているなら、その「思い続けること」は、神の手の中の出来事かもしれない。目に見えないやり方で、何かが動いているかもしれない。それが今すぐわかる必要はない。
考えてみましょう
あなたが「何もできない」と感じるその場所で、それでも離れずにいることは、神の手の中の出来事かもしれない。そう聞いたとき、あなたの中に何が湧いてくるだろうか。
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