「十分かどうか、ちゃんとできているかどうか」——その問いを、心のどこかに抱えたまま、今日も誰かのそばに立っていませんか。
それとも、その問いさえ意識する余裕がないまま、一日を終えようとしているかもしれません。
「このようにあなたがたも、自分は罪に対しては死んだものであり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きたものだと思いなさい。」(ローマ6:11)
神の側には、あやふやさがありません
誰かのために笑顔でいることは、嘘ではないと思います。
それは本物の愛情だし、本当に大切にしている場所だから、そこに立っている。
でも、家に帰ってひとりになったとき、ふっと「私はこれで十分なのだろうか」と思う夜が、あるかもしれません。
「一応、信じています」。
「一応、クリスチャンです」。
その「一応」は、正直さから来ています。
自分の歩みを見れば、揺れているし、迷っているし、昨日より今日の方がよかったとは言えない日もある。
だから「一応」という言葉が出てくるのは、自分に嘘をつきたくないからこそです。
その一点に、「一応」はなかった
でも、聖書が語るのはこういうことです。
キリストと共に十字架につけられたその一点で、罪の歩みは死で終わりました。
そして、よみがえりへと移された。
その出来事に、曇りはなく、あやふやさもなく、「一応」は、どこにも見当たりません。
「あなたはキリストのものとされた」——それは、あなたの歩みの完成度に基づくことではありません。
神がキリストにおいてなしてくださった、確かな出来事です。
あなたがふさわしく歩めているかどうかではなく、神が先になしてくださったこと。
そこに「一応」はないのです。
誰も気づかなかった場所にも、いてくださった
キリストと共に十字架につけられ、よみがえりへと移された——その「共に」は、あの一点で終わったのではありません。
「キリストと共に生かされる」——その「共に」には、もう一つの意味があります。
一人ぼっちで、周りの誰にも理解してもらえないと感じるとき。
誰にも見えていなかった疲れの場所にも、キリストはいてくださいました。
見えていなかったのは、周りの人だけです。
あなたがひとりで抱えていたあの夜も、神にとっては「ひとり」ではなかった。
神の側では、見えていなかったものは、一つもありません。
あなたが声にできなかった重さも、「これで十分なのか」という夜ごとの問いも——全部、見えていました。
それが「共に」の意味です。
あの一点で確かとされた「共に」は、今夜のあなたのもとまで続いています。
あなたが「十分かどうか」で揺れているその夜にも、神がキリストにおいてなしてくださった「共に」は変わりません。
あなたはすでに、その「共に」の中に置かれています。
のぼくんの今日のつぶやき
誰にも言えないまま、ひとりで抱えていた夜が、僕にもあります。
「これは自分が解決しなければ」と思って、誰にも話せなかった重さ。
でも今日のところを読んで、その場所にもキリストはいてくださったんだという言葉が、静かに届きました。
孤独だと思っていたあの時間に、すでに確かな「共に」がいてくださった——それは、ずっと深いところに届く気がします。
その場所に、すでにいてくださった——今日はそのことを、静かに受け取っています。
《参考礼拝メッセージ》
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