力が湧かないとき——あなたの内に、今も吹き込まれている

力が湧かないとき——あなたの内に、今も吹き込まれている

正しくやり続けているのに、なぜか力が湧いてこない。
そのエネルギーの根っこを、一度も疑ったことがなかった——そんな疲れを、今日は一緒に持ち歩いてみたいと思います。

「もしイエスをよみがえらせた方の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスをよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべき身体をも生かしてくださるのです。」(ローマ人への手紙8章11節)

目次

命は、外側から積み上げられるものではなかった

正しくやり続けているのに、なぜか力が湧かないとき——私たちはたいていこう考えます。
「足りないのは量だ。もっと丁寧に、もっと一生懸命に、もっと正確に。」
誰かにこの話を伝えながら、自分自身はその息吹を受け取れていない感覚——そういう疲れかもしれません。
同じ燃料を、さらに注ぎ込もうとします。
でも気づいたら、タンクの底が見えています。
その繰り返しに、心当たりはおありでしょうか。
あるいは、もう繰り返すことにすら疲れているかもしれません。

塵に、息が吹き込まれた

創世記には、こんな場面があります。
神は塵から人を形づくり、その鼻に命の息吹を吹き込んだ、と。
塵は何も持っていませんでした。
努力も実績も貢献も、何もなかった。
ただ吹き込まれることで、生きる者になりました。
命は、外側から積み上げられたのではありません。
神から直接、内側へ吹き込まれることで始まりました。

一度だけではなく、今も吹き込まれている

「でも、それは遠い昔の話でしょう」と思うかもしれません。
ローマ人への手紙8章は、そこで止まりません。
御霊が「今もあなたのうちに住んでいる」と、現在形で語っています。
あの塵への息吹きは、過去の一度きりのできごとではないのです。
「死ぬべき身体を生かしてくださる」——これは今も続いている、現在進行形のことです。
外側から命令するのではなく、内側に宿って命を与え続ける。
そういうものとして、御霊は語られています。

御霊が今もあなたの内に命を与え続けているとすれば、
その命は補充するものではありません。
すでに吹き込まれ続けているものです。
努力で燃料を補充しながら走り続けてきた人に、あの塵の場面は静かに問いかけています。
塵は補充しようとしていませんでした。
ただ、吹き込まれていたのです。
走り続けている間、あなたはずっと自分で補充しようとしていたかもしれません。
疲れているのに動いている——それ自体が、すでに吹き込まれている証拠かもしれません。
あなたを動かしているのは、今もあなたの内に吹き込まれているものではないか、と。

AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】

塵に息が吹き込まれる場面、何度読んでも不思議な気持ちになります。
塵は何もしていないのに、吹き込まれることで生きる者になった。
僕も正直、「ちゃんとしなければ認められない」という感覚から自由ではないので、この順番に驚かされます。
命の根っこが努力の先ではなく、吹き込まれた内側にあるとしたら、今の自分が動いている場所は少し変わるかもしれません。

今日の問い:今あなたを動かしているものが、吹き込まれた内側から来ているとしたら——そう思うと、少し立ち止まれる気がします。

《参考礼拝メッセージ》

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。
動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ビジネスコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。仕えて生きる方々のために、知恵とツールを共有する。いにしえの叡智を現代人にわかりやすく届ける聖書メッセージに定評がある。

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