正しく生きようとしているのに、なぜか孤独な感じが消えない。
そんな夜、あなたはどこへ向かおうとしているでしょうか。
「もっとちゃんとしなければ」という方向でしょうか。
それとも、別の何かが見えているでしょうか。
私たちが願いを捧げるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなる哀れみによるのです。
ダニエル書 9章18節
正しさの先で、人は何に頼るのか
努力を続けているのに、なぜか満たされない。
そういうとき、私たちはたいてい同じ方向へ引き戻されます。
「もっと正しくならなければ」という方向へ。
もっと丁寧に。
もっと誠実に。
もっとちゃんと。
その繰り返しの中で、疲れだけが静かに積み上がっていきます。
誰かに何かを届けている側なのに、自分だけが置いてきぼりな感じがする——そんな経験が、あなたにもないでしょうか。
言い訳をしないで、そのまま神の前に
ダニエルは、エルサレムが70年間荒廃するという現実を知ったとき、灰をかぶって神の前に伏しました。
イスラエルの民が、その状況に至ったのには理由がありました。
敵国が強かったから、仕方なかった部分もあった。
周りの文化に合わせざるを得なかった。
そう言えば言えなくもなかったはずです。
でもダニエルは、一つも言い訳を並べませんでした。
「正しさはあなたのもの、恥は私たちのもの」と、そのままを告白しました。
その姿が、ダニエルです。
「正しさ」ではなく「哀れみ」に頼る
そのダニエルが神に願ったのは、自分の改心や努力の約束ではありませんでした。
「心を入れ替えてもう一度頑張りますから」でもありませんでした。
彼が口にしたのは、「私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなる哀れみによって」という一言でした。
「私が何者であるか」ではなく、「あなたがどういう方であるか」に頼ったわけです。
正しくあろうとして疲れているその状態のまま。
それでも受け取れるものが、哀れみでした。
灰をかぶって神の前に伏したダニエルが立ち上がることができたのは。
自分が正しくなったからではありませんでした。
哀れみによって受け取ったからです。
正しくあろうとするほど、遠ざかっていくように感じていた。
正しくあることで孤独を埋めようとしていた。
でもダニエルが立ち上がれたのは、正しさによってではありませんでした。
哀れみによって受け取ったからです。
誰かに哀れみを語ってきたあなたが、自分自身への哀れみを受け取れていないとしたら——。
正しくあろうとして孤独だったのは、誰かに愛されるために正しくあろうとしていたからかもしれません。
でも哀れみは、正しさの先にあるのではありません。
その哀れみは、今夜のあなたにも届いています。
のぼくんの今日のつぶやき
灰をかぶったダニエルの場面、読みながら少しだけ息が楽になりました。
言い訳をしないというのは、弱さを隠さないということでもあるんですよね。
「正しい行いによるのではなく」って。
あれだけ信仰深いダニエルが言うんだから。
僕みたいな者が言っても許されそうだと思いました。
今日の問い——正しくある自分を保つことで、孤独を埋めようとしていないでしょうか。
哀れみは、すでにそこにあります。
《参考礼拝メッセージ》
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