相手によって態度が変わってしまう人へ。
ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。彼らが福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前でケファにこう言いました。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強いるのですか。」
(ガラテヤ人への手紙 2章11〜14節)
この話の要点
相手が変わるたびに、自分の態度まで一緒に変わってしまうこと、ありませんか。変わっているのは態度ではなくて、その場で自分を認めさせようとする根拠のほうなんですよね。自分が確信をもてる側に根拠を置くと、相手が誰であっても取り替えずにいられます。

態度が揺れるのは、性格のせいではないんですよね。相手ごとに、認めさせるのが難しい根拠を、気づかないまま取り替えているからです。すでに認められている根拠を一つに決めておけば、取り替えようがなくなります。だから、誰の前でも同じ態度で立てていられるわけですね。
相手が変わると、こちらの立ち方も変わる
のび太は、ジャイアンの前では逃げるか身を守るかします。スネ夫の前では、損をしないように取り引きの顔になります。出木杉くんを見たときは、僕なんか駄目だと小さくなります。同じ一人の子が、相手の顔を見るたびに、強さ・損得・出来と、自分が認められる根拠を取り替えているんですよね。
わたしも同じことをしています。強そうに見える人の前では当たり障りのない返事になりますし、話の早い人の前では妙に結論を急ぎます。その場はそれでしのげるんですが、相手の顔ごとに合格点が動くので、認めさせようとするほど終わりが来ないんですよね。そういうとき、気が弱いからだと自分を思っていました。
ペテロも同じでした。ユダヤ人ではない人たちと一つの食卓を囲んでいたのに、エルサレムから人が来ると聞いた途端、心のアンテナが鳴ります。見られたらまずい、と思ったわけですね。そこから段々と距離ができて、やがて周りの人まで同じようにし始めました。

取り替えようのない根拠は、もう配られている
パウロがペテロに抗議したとき、理由はたった一つだけでした。何を食べるか、体に印をつけるか。そういう昔から守ってきた決まりを持っているかどうかで、同じ食卓が上と下に分かれてしまうからです。決まりそのものは大事でしたが、それは目的地ではなく、そこまでの付き添いでした。
イエスは、罪人と呼ばれていた人たちの食卓に座りました。神の食卓というのは、神がそこにいる人を認めている席のことです。認めるかどうかは招く側が決めるので、その方が招いた時点で、おまけだと思っていた人たちが客として迎えられたわけですね。席に着く資格を自分でそろえたわけではないんです。
だとすると、端っこにおまけで加えられたと思っている席も、同じ食卓です。認められる根拠はこちらが用意するより先に、配られていました。食卓の主が、あなたは私の大切な客だ、と言っているからです。先に配られたものは取り替えようがないので、わたしもまだ顔を見てから決めてしまいますが、置き場所だけは動かさずにいようと思います。

次に顔色をうかがいそうになったら、いま根拠をどこに置いているか、一度だけ確かめてみましょう。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』(新日本聖書刊行会)によります。

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