進んだ距離で自分を測ってしまう人へ。
このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
「見よ、処女が身ごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイの福音書 1章22〜23節)
この話の要点
思い切って一歩動いたのに、動く前のほうが楽だったと思う日、ありませんか。あの民が迷っていた荒野でも、神様の家は隊列の真ん中に張られていたんですよね。だとすると誇りは、着いてから手に入るものではなくて、歩いている途中にもう与えられています。進んだ距離ではなく誰と歩いたかを考えると、何も見せられなかった今日も、そのまま一歩として残るわけですね。

神は着いた先で待っていたのではなく、迷う隊列の真ん中にとどまりました。だから誇りは着いてから手に入るのではなく、歩いている途中にもう与えられています。進んだ距離ではなく誰と歩いたかを考えて、今日の歩みを誇ってください。
出た後のほうが、厳しかった
思い切って出てきたのに、出てくる前のほうが楽だったと思う日があるんですよね。あの民もそうでした。奴隷の地から自由になったのに荒野のほうが厳しくて、いつになったら着くのかも分かりません。その隊列の真ん中に、一つの家が設けてありました。
石の土台はなく、布を張って、たたんで、次の場所でまた設ける家です。神様の家、幕屋です。道を示すだけなら先頭に立てば足りるのに、幕屋があったのは民の集まりの真ん中でした。同じ場所で寝起きするためなんですね。
迷っている真ん中にこそ、神様はとどまっておられました。安心と、実際の助けと、三つめの誇り。誇りは、何を成し遂げたかだけでなく、誰と並んで歩いたかでも得られます。だから真ん中に神様がいる間、この三つを着く前の途中にもう手に入れていたわけですね。

一日を、何で測るか
マタイの福音書の一番初めに、生まれてくる子はインマヌエルと呼ばれる、と書いてあります。「神は我々と共におられる」という意味の名前です。着いたら共にいる、とは書いてありません。歩いている間のことを指している名前なんですね。
それでもわたしは、進んだ距離で自分を測ってしまいます。今日は何も進まなかったな、と思いながら手帳を閉じる夜があります。そう測ると、その一日は歩みから引かれて空白になります。確かに、こういう日があります。
でも同時に、もう一つの測り方があります。誰と歩いたかを考えると、何も見せられなかった日もそのまま一歩として残ります。真ん中にいてくださる方は、もう横にいます。だから、まだ着いていない今日の歩みを、わたしは誇ることにしています。

今日は、進んだ距離を測るかわりに、誰と歩いたかを考えてみましょう。
聖書の引用は『聖書 新改訳2017』(新日本聖書刊行会)によります。

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