0124 良い麦と悪い麦、最後の結果

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どうも、早起き牧師の中澤信幸です。

 

2017年7月27日木曜日、第124回目の放送です。

 

イエス・キリストのたとえ話から、畑に蒔かれた良い麦、悪い麦のお話をします。

 

 

[note]

2017年7月27日木曜日、第124回目の放送、お相手は中澤信幸です。

毎週木曜日には、イエス・キリストが話されたたとえ話を紹介しています。今まで12個か、13個のたとえ話を紹介してきたと思います。全部で、40個以上のたとえ話があるように聞いていますので、まだまだこのシリーズを続けていきたいと思っています。

畑に蒔かれた毒麦

イエス・キリストが話された、たとえ話のひとつです。ある人が畑に良い麦を蒔いたといいます。しかし、その敵になる人たちが来て、畑に悪い麦をこっそり蒔いていきました。やがて芽が出てきたときに、どうも畑の様子が変だということに、しもべたちが気づきました。良い麦を蒔いたのではないですか、どうして悪い麦が出てくるのですか?と聞いたわけです。すると主人は、それは敵がやったことに違いない、と答えます。では、悪い麦を抜いてしまいましょう、としもべたちは言いました。主人は、いやそのままにしておきなさい。今摘んでしまうと、良い麦まで摘んでしまうといけない。収穫のときに、良い麦は蔵に収め、悪い麦は焼いてしまおう、と。

このたとえ話は、結局のところ良いもの、悪いものそれは1番最後にはっきり明らかになって、その結果を問われることを意味しています。良いものと悪いものとは、結局のところ最後にはっきり結果として現れる。そして、その結果を問われることになるいうことですね。このたとえ話から、3つのことをお話ししたいと思います。

良いものは妨げられない

ひとつは、良いものの成長というのは妨げられることはない、ということですね。しもべたちが悪い麦を抜いてしまいましょうか、と言ったのですが、いやそのままにしてきなさいと主人は言ったわけです。そのまま放っておいたら、良いものが悪いものに冒されて、ダメになってしまうのではないか。いや、そういう心配はないって言うんですね。良いものは、ちゃんと最後に良い結果を残すことになる、悪いものに妨げられることはないから、心配しなくていいと言ったわけです。

ここに良いものに対する自信というか、誇りというか、確信というか、良いものは良いもので大丈夫。そういうですね、安定化見ることができますね。

結果はいずれにしても問われる

ふたつです。結果は問われるということですね。いずれにしても、最後の最後に、結果は明らかになって、その結果は問われるんだということです。悪い方のものは火で焼かれますし、良いものは蔵に収められる。その結果というのは、ごまかすことができない。そういう意味で、安心していい、というか。そこに無用な不安はない、ということですね。

誰かの見張り役になることはない

みっつめなんですけど。人の見張り役になることはないよねってことです。私たちが、あの人のあのこと、この人のこのこと、というふうに気になることをいちいち取り上げて、それを見張り役のようになって、警察のように取り締まる必要はないよね、ということです。

もちろん関わる大切な人のどうしても必要なことについて、指摘をしたり、関わったり、直したりということは、必要なことではあります。でも、私たちの1番すべきことではない。特に関わりがそれほどでもない人の悪い所を見つけることに躍起になって、それが私のすべきだというふうなことは、無駄なエネルギーの使い方なんじゃないかと思います。むしろ、自分に与えられている良いものが育まれていくこと、自分が自分に求められている結果を出していくこと。そういう自分の歩みに責任を持つことが大事ですよね。

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中澤信幸(キリスト教牧師✕ライフコーチ)

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