0425 サーバントが毎日経験し続ける、あの思いとは?

 

どうも、あなたのサーバント中澤信幸です。

 

2018年10月5日金曜日、第425回目の放送です。

 

東日本大震災で壁が壊れてしまった教会、そこで牧師と神父が経験したのは、サーバントが毎日経験している、あの思いでした。

 

 

震災の中での祈り

今日のあさのばで何を話ししようかな、と思っていたところに、教会の方が新聞の切り抜きを持ってきてくれました。「興味深い記事だったので、読んでみてください」と手渡されたのは、朝日新聞のてんでんこという欄の記事でした。

祈りについて取り上げている中で、東日本大震災で壁の壊れてしまった教会、その牧師の柳谷さんという方の話が連載されています。柳谷さんはカトリックの神父である晴佐久神父に、「私のために祈ってください」とハガキを出します。そして、晴佐久神父のミサに出席しました。「釜石から来ました」というと、晴佐久神父は「あなたのために祈っていましたよ」と柳谷さんから頂いたハガキを指差しながら答えました。

 

壁の壊れた教会の姿

晴佐久神父は、釜石の教会を訪ねます。津波の被害で、壁が壊れてしまった教会です。そこに立って、晴佐久神父は「これこそが教会の姿なのだ」と直感します。壁のない教会、壊れたままになってしまっていて壁のない教会。文字通り人々の只中にあったわけです。壁で遮られることなく、自分たちのしていることが人の目にさらされるという経験です。

普通の教会では、壁に守られた中で礼拝をします。日常生活から切り離されて、何も心配しなくていいところに来て、心を落ち着けて、神様を見上げることができます。そうやって、自分たちの信仰生活を守ることができるわけです。

しかし、ひとたび壁が壊れ、人々の目に教会の歩みが明らかになるとき、信仰を持っている人たちの歩みが問われることになります。目の前の、身の回りの人たちにとって、どんな意味を持つのか。壁で守られていれば、自分にとってどうなのか?ということだけです。壁が壊れてしまった時に、ではあなたの歩みは、普通に生きている人にとって、どんな意味を持つのか?特に震災の時、痛み、悲しみ、極限の状態の中にあるこの人たちにとって、信仰はどういう意味を持つのか?それが問われます。

 

恐れがあるからともに歩める

この経験を、晴佐久神父は恐れという言葉で表します。その恐れがだんだん取り除かれていくプロセスだと理解しています。つまり、自分たちの信仰が苦しむ人々のただ中にあって、どういう意味を持つのか、を問われます。私も傷んでいる、悲しんでいる、そのことは変わりがないと気づきます。私が人の上に立って教えたり、助けたりできる存在ではない。信仰を持っているからといって、上から手を差し伸べることはできないのだ。信仰をもちながら、同じところに立って、同じ苦しみ、悩みをもつ者として、共に助け合って生きる。そういう信仰なんだ。

 

サーバントが毎日抱く恐れと葛藤

この思いは、サーバントである皆さんが、毎日経験している思いと同じです。サーバントであるということは、壁のない世界に毎日出て行くようなものです。私はサーバントだ。本を読み、自分の精神世界に入り、心の優しさ、愛の豊かさに満足を覚えているだけならば、何の恐れもありません。

皆さんは違いますね。サーバントの名札をつけることもなく、毎日の生活の中に出て行きます。直面するのは、助けを必要とする人々です。普通に生活をしている人々です。この人たちの中で、私が仕え、人の役に立ちたいと歩むことは、一体どれほどの意味を持つのでしょうか。実際的な助けをもたらすことができるのでしょうか。毎日、それを問われる思いをしているでしょう。

恐れがあり、葛藤があるのは当然のことです。ふさわしいことでもあります。この思いが、サーバントには求められています。それによって、決して上からではない、ともに歩む者としての助けを実現していくことになるのです。

 

壁のないサーバントとしての歩み、心から応援しています。あさのばが、上からの助けではなく、ともに歩む者として恐れや葛藤を共有し、助けになる番組でありますように。

 

 

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中澤信幸(キリスト教牧師✕ライフコーチ)

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