正しくやってきた、と思っている。
でも、その実感の底から、動機を問う声が返ってくる夜が、あるかもしれません。
「あなた方は、自分が何を求めているのか分かっていない。」(マルコ10:38)
積み上げてきた者が、問われる場所
誠実に歩んできた者が、その誠実さの真ん中で立ち止まる夜があります。
「正しくやってきた」という実感は、本物です。
でも、その実感の底に何があったのかを、まだ一度も問い直したことがない——そういう夜が、あるかもしれません。
根拠のある要求を、彼らは持っていた
ヤコブとヨハネがイエスに願い出た言葉は、無邪気な欲からは来ていませんでした。
彼らは誰よりも熱心に従ってきた弟子でした。
山に連れられ、栄光のお姿を目撃し、ずっとそばにいた。
その誠実さは、本物だったはずです。
だからこそ、彼らは言えました。
「栄光の座の右と左に、私たちを座らせてください。」
これは根拠のない要求ではありませんでした。
長年の誠実さに裏打ちされた、「報いを受けたい」という、深いところからの言葉だったと思います。
そしてそこには、「他の者よりも私たちが」という比較の感覚も、静かに混じっていました。
「分かっていない」は、責めではなかった
イエスは答えました。
「あなた方は、自分が何を求めているのか分かっていない。」
叱責ではありませんでした。
彼らが積み上げてきたものを否定する言葉でもありませんでした。
これは、求めているものと向かっている道のずれへの、静かな指摘です。
弟子たちが思い描いていたのは、誠実さを積み重ねることで、その先にある栄光の座へと上っていく道でした。
イエスは「右と左の座は、私が与えるものではない。そこに備えられた者がある」と言いました。
積み上げの結果として座を得るのではない、という指摘でした。
長年、誠実に積み上げてきたものが、その積み上げの底にある動機を初めて照らし出された瞬間が、あるかもしれません。
あるいはそれは、問われていたのに、気づかないまま来てしまった問いかもしれません。
差し出すことで座を得るのではなく、座はすでに備えられている——だから差し出せる。
この順序のひっくり返りが、動機への問いの先にあったものかもしれません。
「あなたは自分が何を求めているのか。」
この問いが届くとき、それは責められているのではなく、もう一度、最初の場所から歩き直す入り口に立っている——そんな気がしています。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
今日のつぶやき
ヤコブとヨハネが「愚かだったから」失敗した、とは読めなくて、僕はそこで少し立ち止まりました。
むしろ彼らは誰よりも誠実で、だからこそ「根拠がある」と思えたんですよね。
誠実さが、いつの間にか「報いを受ける権利」の感覚に育っていく——それは、熱心な人ほど起きやすいことなのかもしれません。
「座はすでに備えられている、だから差し出せる」という順序のひっくり返りが、今日いちばん残っています。
僕はまだ、この問いの途中にいます。
《参考礼拝メッセージ》
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