25年かけて積み上げてきたものがある。賜物を注いで、人を迎え、場所を育ててきた。それなのに、ある日ふと思う。「自分は今、何をしているのだろう」と。
ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で素晴らしい不思議な技と印を行っていた。
共同体が広がるとき、問いも広がる
7名だった群れが50名になった。それは明らかに良いことだ。でも、広がるほど見えてくるものがある。目が届かなくなった場所。手が回らなくなった人。「最初はこんなはずじゃなかった」という違和感。
使徒の働き6章には、まさにその場面が出てくる。
ヘブライ語を話すユダヤ人と、ギリシャ語を話すユダヤ人が、同じ共同体に加わるようになった。グループが増える。文化が混ざる。そのうちに、未亡人たちへの世話が行き届かなくなっていた。苦情が出た。「見えていなかった」という事実が、急に表面に出てきた。
使徒たちはそのとき、こう問われた。もう人数を増やさないか。それとも、別の担い手を立てるか。
彼らは後者を選んだ。7人を選んだ。その一人がステパノだった。
ステパノに与えられた「分」
ステパノは執事として任命された。つまり、最初の役割は「人の世話をする人」だった。食事の配給を管理し、漏れなく届ける。地味で、目立たない仕事だ。
ところが彼は、それだけではなかった。「恵みと力とに満ち、不思議な技と印を行っていた」と書かれている。執事の仕事をしながら、使徒たちがしていた宣教にも加わっていた。複数の役割が、一人の人間に重なっていた。
同じ執事でも、誠実にケアすることに徹した人もいたはずだ。ステパノはそれに加えて、神のわざが別の形で働いた。それがステパノに与えられた「分」だった。
リベルテンの人々がステパノに議論を仕掛けてきた。彼らはローマに捕らわれ、後に解放され、異文化の中で生きてきた人々だ。腕ずくで押さえ込もうとした長老たちとは違う。正面から議論を挑んできた。「あなたの言い分はなんだ。根拠はあるか」と。
ステパノは応じた。知恵と御霊によって語り、彼らは対抗できなかった。
しかし議論で勝てないとわかったとき、彼らは変わった。人をそそのかし、偽りの証人を立て、数で押さえ込みにかかった。正面から挑んだ者たちが、最後は腕ずくに転じた。
問いは今も同じ形で来る
議論を挑んだリベルテンと、腕ずくに出た長老たち。この二つは、実はそれほど遠くない。どちらも「言い負かされた」と感じた瞬間から、力に頼った。
ステパノが問われたのは、そのただ中だった。議会に引き出され、偽証にさらされた。それでも彼の顔は「御使いの顔のようだった」と書かれている。
ステパノが持っていたのは、肩書きでも数でもなかった。執事として任じられながら、宣教者として動いた。その「分」を、状況がどう変わっても手放さなかった。
群れが広がるとき、役割は増える。事務が増え、調整が増え、「担当者」になっていく。そのとき、自分に最初から与えられていた「分」が、いつの間にか小さくなっていることがある。
増えることは良いことだ。でも増えた結果、一番大事なものが薄まっていないか。その問いが、ステパノの場面から静かに聞こえてくる。
考えてみましょう
今の自分の一週間を振り返ったとき、「これが自分に与えられた分だ」と感じる時間は、どのくらい残っているでしょうか。
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