神の導きに支えられながら、それでも今夜が長いと感じるあなたへ。一人で過ごしたこの1年。涙をこらえた夜があった。「元気にしてるよ」と送りながら、本当のことを言えなかった朝があった。それでも今日、ここに立っている。——あなたを、ここまで連れてきたのは誰だったのでしょう。
主は大いなるお方です。威光をまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに世界は堅く立てられ、揺らぐことはありません。あなたの証しは誠に確かです。
——詩編93編1節、5節
エジプトの国を出て第2年目の第1の月に、主はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。イスラエル人は定められた時に、過ぎ越しのいけにえをささげよ。
——民数記9章1節〜2節
1年前を、もう一度振り返る
民数記の9章に、こんな場面があります。
イスラエルの民がエジプトを脱出してから、ちょうど1年が経とうとしていた。神はそのとき、モーセを通してこう命じました。「過ぎ越しのいけにえを、定められた時にささげよ」と。
過ぎ越しのいけにえとは、1年前の出来事を記念するものでした。エジプトで奴隷として生きていた彼らが、神の力によって救い出された。その夜、羊の血を門柱に塗った家だけが災いを免れた。そのことを、1年後に静かに思い起こしなさい、と神は言ったのです。
「1年前を振り返れ」という命令が、なぜ今の自分に届くのか。
初めは不思議に思うかもしれません。でも少し立ち止まってみてください。あなたにも「1年前の今日」があるはずです。あの日の朝の空気、電話を受けたときの手の震え、玄関で靴を揃えてから気づいたこと。その一つひとつを、神は知っています。その日もそこに、神はいたのだと聖書は言います。
規則性ではなく、信実さ
「1、3、5」と来れば次は「7」。「あ、い、う、え」と来れば次は「お」。そういう規則性が、世界にはあります。
神の導きも、ある意味でこれに似ています。1年前を導いた神が、その後の日々も導いた。だとすれば、これからも同じ神が共にいてくださる——その連続性が、聖書の言う「神の真実さ」です。
でも、これは「順調にいくはず」という話ではありません。民数記の続きを読むと、雲の柱が幕屋を覆う場面が出てきます。雲がとどまっているときは、民は動かない。雲が動いたときだけ、民は後を追って旅に出る。それが神の導きの形でした。
つまり「とどまっていい時間がある」ということです。急いで前に進まなくていい。雲が動くまでは、そこにいていい。荒野の砂の上で、テントを張ったままでいていい。
あなたが今、まだ歩き出せていないとしても。「元気にしてるよ」としか送れない朝があるとしても。それはあなたが弱いのではない。雲は、まだここにとどまっているのかもしれない。
今日も、ここにいる神
イスラエルの民は荒野を旅しながら、時に疑い、時に不満を言い、時にモーセに怒りをぶつけました。それでも雲の柱は消えませんでした。火の柱は夜を通して、彼らの上にありました。
「神の真実さは変わらない」という言葉は、ときに遠く聞こえます。今夜が長いとき、テーブルの向かいが空いているとき、そういうときには特に。
でも聖書が言うのは、「だから大丈夫」という話ではありません。昨日も今日もあなたと共にいた神は、今夜もここにいる——ただそのことだけを、この箇所は静かに告げています。
今日の問い
あなたの「1年前の今日」に、神はどこにいたと思いますか。

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