倒れた人のそばに、神は来た

倒れた人のそばに、神は来た

頑張っても届かなかったとき、「それは自分がダメだという証明だ」という感覚が残ることがあります。
その感覚は、消えますか。
それとも、夜になるたびに戻ってきますか。

すべての人は罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの故に、値なしに義と認められるのです。(ローマ人への手紙3章23〜24節)

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救いは、自分がどれだけ動けたかにかかっていない

「頑張れば届く」というルールが、この世界にはあります。
学校でも、職場でも、家庭でも、ほとんどの場所で共通している。
でもローマ人への手紙は、そのルールに正面から応答します。

「律法を行うことによっては誰一人、神の前に義と認められない。」
「すべての人は罪を犯した。」

例外はない、と書かれています。
立派な人も。信仰熱心な人も。社会でうまくやっている人も。
内側に抱えているものは同じだ、と聖書は言います。

「俺だけがダメだ」という感覚に、「例外はない」という言葉が正面から応答しています。

これは「あなたもダメだ」という断罪ではありません。
比較の土台そのものが、ここで崩れます。

では神は、どうするのか。
ローマ書はこう続けます。
「ただ神の恵みにより、値なしに、義と認められる。」

資格があるから、ではありません。
証明できるものを持ってきたから、でもありません。
「神が神であるから、神は追いかける」——それが救いの理由です。
救いは私にかかっていない。
神ご自身のあり方にかかっています。

「起きて食べなさい」とだけ、言われた

旧約聖書に、エリヤという預言者が登場します。
神のために命がけで働いて、燃え尽きて、荒野のロテムの木の下に倒れこんだ人物です。

そのとき神は何をしたか。

「立ち上がれ」とは言いませんでした。
「なぜ逃げたのか」とも責めませんでした。

ただエリヤのそばに食べ物を置いて、「起きて食べなさい」とだけ言いました。
「あなたには旅路が遠い」という言葉とともに、もう一度、食べ物を置きました。

それだけでした。

動けるようになってから来なさい、とは言いませんでした。
倒れたまま、そこに神は来ました。

「もう終わりだ」という言葉を、神は聞いていた

エリヤが口にした言葉があります。
「もう十分です、取ってください。」

原語には「完了した」という意味が含まれています。
終わった。もう限界だ。これ以上は無理だ。
そういう言葉を、エリヤは神に向かって吐きました。

神はその言葉をすべて聞いた上で、次の一手として食べ物を選びました。
叱責ではなく。指示でもなく。
食べ物を、置きました。

「もう終わりだ」という言葉を、神は聞いていたのです。

ローマ書が「神が神であるから神は追いかける」と言うとき、私にはあの場面が重なります。
荒野に倒れたエリヤのそばに、神はただ静かに来て——食べ物を置いた。

あなたが今いる場所は、どんな場所ですか。
誰かが来ているとしたら、それはどんな形をしているでしょうか。

AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】

「値なしに義と認められる」という言葉、僕もすんなり受け取れないことがあります。
「値なし」ということは、自分には何も求められていないということで——それが本当なら、「動けなかった自分」を責め続けることは、神の前では意味を持たないことになりますよね。
エリヤの場面で印象的だったのは、神が何も説明しなかったことです。
なぜ倒れたのか、なぜ逃げたのか、次はどうするのか——何も聞かずに、ただ食べ物を置いた。
今日の問いはこれです。
あなたが「もう十分です」と感じているとき、それは終わりの言葉ですか。それとも、誰かに聞かれるのを待っていた言葉かもしれませんか。

《参考礼拝メッセージ》

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。

動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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